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鵺伝説と万葉集、そして地名由来

万葉集より

「花散らふ この向つ嶺(を)の 乎那(おな)の嶺の 洲(ひじ)につくまで 君が齢(よ)もがも」(巻14 3448)

意味を取りにくい歌なのですが…「花が散っている乎那の嶺(山)が低くなって湖の洲に届くくらい低くなるまであなたが長生きしてほしい」というちょっと現実離れした意味にとる説が一般的なようですが、「この乎那の山に散っている桜の花びらが湖の洲にたどり着くまであなたに行き続けてほしい」という意味にとる説などもあります。

前者だと君が代みたいに永遠の繁栄を寿ぐ内容になるのに対して後者では目前に迫っている「君」の最期の瞬間をできるだけ引き伸ばそうとする儚い願いを感じさせる内容になる。正反対ですねぇ。

結句の「君が齢もがも」が「君が代」を連想させますし(万葉集の原文では「伎美我与母賀母(きみがよもがも)」)、前者の解釈がやはり自然なのでしょうか。千代に八千代に、みたいな感じで。死が迫っている人に対して「齢」は使わないかな?

この歌は万葉集では14巻の「いまだ国を勘へぬ雑歌」に分類されており「乎那(おな)」の具体的な場所は不明ですが、一般的には浜名湖の北西に位置する「尾奈」であろうと考えられているそうです。

さて、以前わたしは名前は忘れてしまいましたが、ある外国人がエッセイか何かでこんなことを書いているのを読んだ記憶があります。

「日本を訪れ、東海道新幹線に乗った外国人の多くはその車窓からの眺めに失望する。しかしそれは当然のことで、新幹線の車窓から日本の本当の魅力を見ることはできない」

ローカル鉄道ならともかく、新幹線を開通させるために周辺を開発(破壊)してるんですからまさに「当たり前」ですが…

一方、万葉研究で知られ、万葉集ゆかりの地を紹介した「万葉の旅」を記した犬養孝はその著作で浜名湖についてこんなことを書いています。

万葉研究で知られた氏の代表作。今は亡き(涙)現代教養文庫。現在は平凡社ライブラリーから出版されています。

「浜名湖といえば、いっぱんに(東海道新幹線が通過する/わたしの補)弁天島付近の好風が知られているが浜名湖のほんとうのよさは湖北にある」

好風って…年末に訪れたら遠州の空っ風の寒さに凍死しかけたぞ!…というツッコミはさておき(笑)、やはり新幹線が通っているエリアのもっとも魅力的な面は新幹線の沿線からちょっと離れたところにある、というのはおそらく間違いないのでしょう。

京都駅にしても京都の市街地の南の端っこ、新幹線に乗って京都を訪れた観光客が京都駅から伏見稲荷大社へ行って「京都に来た!」なんて投稿をしていると「そこ京都じゃないから!」とプライドの高い(失礼)京都人たちからツッコミが入りかねない(笑)

ともかく、浜名湖の魅力はやはりJR沿線の湖南ではなく、天竜浜名湖鉄道沿線の湖北にある、というのは間違っていないでしょう。わたしも訪れた時には浜名湖の湖北(&浜名湖の支湖である猪鼻湖)の沿岸をほっつき歩いてまわったのですが素晴らしい景色を楽しむことができました。

三ヶ日駅から乗車した車窓からの眺め。ゆるきゃん△車両で…って完全にゆるきゃんメインじゃん! 先日ゆるきゃん△のアニメ第3期の制作が発表されたのですが…アニメの制作会社が変わって絵柄が激変、期待と不安が交錯って感じ。

で、そんな浜名湖の北部はみかんの産地としても有名な三ヶ日地区に含まれます。浜名湖と言えばうなぎの養殖が有名で、あちこちで「うなぎ推し」が見られるのですが、この地域だけうなぎと「みかん推し」が混在している。

うなぎ型トイレ
こっちはみかん型トイレ

こうした「みかん推し」を見かけるようになった段階で「あ、いま三ヶ日エリアに入ったんだな」と実感できる。そしてみかん推しを見かけなく段階で「さよなら、三ヶ日」となる。じつにわかりやすい。

で、冒頭の万葉集の歌に出てきた「乎那(おな)」の地と考えられている「尾奈」は天竜浜名湖鉄道の駅名にもなっており、その名前の由来には源頼政による退治で有名な鵺伝説がかかわっています。


尾奈駅

↓こんな伝説(こうした伝説の例にも漏れず細かな点が異なる別バージョンもいろいろある模様)

「源頼政に退治された鵺はなんとか空を飛んでその場から脱出に成功、東へと逃げ延びたが、浜名湖まで辿り着こうとしたところでついに力尽きる。死体は空中でバラバラになったうえでは現在の浜名湖の北西部に落下。
 
この出来事をきっかけに頭部が落下したところを「鵺代(ぬえしろ)」、胴体が落下したところを「胴先」、翼(羽)が落下したところを「羽平」、そして尾が落下したところを「尾奈」とそれぞれ呼ぶようになった…めでたしめでたし」

「鵺代」の名前があちこちに見られます。「三ヶ日町鵺代」という地名としても残っています。

鵺伝説が地名由来になっているわけですが、面白いのは鵺伝説のもとになった平家物語では鵺は2回登場してどちらも源頼政に退治されている点です。しかも1回目は死体が回収されたうえでうつぼ舟に入れられて川に流されているのに対して2回目は頼政が鵺を「射落とした」と書かれているだけでその後鵺がどうなったのか書かれていません。

つまり、この2回目の鵺に関しては射落とされた後になんとか最後の力を振り絞ってその場から飛び去った、という展開も理論上(?)は成り立つことになります。

この地域の鵺伝説もこの2回目の鵺退治の展開(というか描写上の不足)をもとに生まれたのかもしれません。

これだけでも面白いですが、興味をそそられるのがやはり「尾奈」という地名。伝説では地名由来になっているわけですが、この「おな」はすでに万葉集の時代には存在しており、しかもそれなりに知られていた可能性がある。

となると、以下のような展開が考えられます。

「まず「おな」という地名があった→そこに鵺伝説が入ってくる→地名と結びついて「尾奈」になる→さらに波及する形で「鵺代」や「胴先」といった地名が生まれる」

ちなみに胴先は尾奈のすぐに東に位置している湖に突き出している小さな半島のことです。「羽平」に関しては…ちょっとわからなくて。現地の方などでなにかご存じの方がいらっしゃればご教授いただければ幸いです。

地名が生まれ、変化し、その変化によって地名のイメージそのものが変容していく過程を垣間見ることができそうです。とくに日本語の地名は表意文字を使っているのでその気になれば漢字を変えるだけで意味とイメージを一変させることができる面白さがある。そのため地名と伝承の関係が非常に深くなりやすい傾向があると思います。

そうなると気になるのが「鵺代」や「胴先」「羽平」といった地名にも「元ネタ」があるのか?もともとあった地名を伝説に合わせて「ちょっと変える」ことでこうした地名になったのではないか?

「鵺代」はとてもインパクトのある名前ですが…ここで再び万葉集が登場!

「遠江 白羽の磯と贄の浦と あひてしあらば 言も通はむ」(巻20 4324)

遠江から九州の筑紫に派遣された防人の歌。これも意味がとりにくくて…「故郷の遠江にある白羽の磯と贄の浦が近くにあるように、故郷への距離も近ければ便りも簡単にできるのに」とか、防人が赴任するために贄の浦を通過している途中に詠んだ歌としたうえで「今わたしがいる贄の浦と故郷の白羽の磯がすぐ近くだったら便りだって簡単にできるのにな」などの説があります。

歌の意味はともかく(苦笑)、歌に登場する「白羽の磯」は静岡の磐田市説と浜松市説の2つ、「贄の浦」は今の「鵺代」がある三ヶ日説と三重県の津市説などがあるようです。

これらの説のどちらが正しいかはともかく(苦笑)、浜名湖の北西、現在の「鵺代」に「贄の浦」という地名が万葉集の頃に存在していた可能性が高く、しかも中世には「贄代」と呼ばれていたらしい。「にえしろ」から「ぬえしろ」?

さて、ここから先は空想・妄想の領域に片足を突っ込むことになりますが、なぜこの地に鵺伝説が定着したのか?

もともと「贄の浦」「贄代」の「贄」とは神仏や朝廷への捧げ物。一方でその意味と背中合わせで「生贄」の意味もある。しかも湖と言えば水神信仰をはじめとした神との結びつきが強いところ。そして上記の歌にある「白羽」の名前がもたらすビジュアルイメージ。

これらを総合すると「この地では羽根(翼)を備えた、神とも化け物ともとれない存在が人間に生贄を要求し苦しめていた。そんな化け物を誰かが退治して無事解決して一件落着、めでたしめでたし」みたいな内容のおとぎ話めいた話が存在していたのではないか?

そこに頼政の鵺退治伝説が入ってきて、この「退治された翼を生やした神とも化け物ともとれない怖ろしい存在」が鵺と同一視(&鵺に置き換えられて)されたうえで消滅、鵺伝説が定着したうえで地名由来にもなった…

…といった展開を想像してみたいのですがいかがでしょうか?かなり妄想じみているのは自覚しております。

京都では化け物だった鵺がのちに「鵺大明神」と神さまになっているわけですが、こちらは逆に神さまが化け物になってしまったのでは…なんて考えるとちょっと楽しいです。


歌川国芳の「源三位頼政鵺退治」

いずれにせよ、地名や伝承にはわれわれの妄想…じゃなくて想像をかきたてるロマンがありますねぇ…としみじみ思います。

ちなみに、このエリアにはもうひとつ、「現代の伝説」とも言うべきちょっとおもしろい話もあります。結構有名な話のようですが…以下のような内容↓

「第二次大戦後、浜松に置かれていた司令部に勤めていた人物がアメリカ軍に戦車を接収されるまえに処分しろ、という命令を受けました。そして彼は「四式中戦車チト」という戦車を猪鼻湖に沈めました。彼はそのことを長い間自分の胸のうちに留めていましたが、1999年にその思い口を開いて告白、一躍大評判となったのでした」

しかも、この沈められたという戦車はたった2台しか製造されなかったレア中のレアな試作品ということで全国のミリタリー好きの間で大騒動。実際に湖底の調査も行われたのですが、どうもこのあたりの湖底は視界が開けずに調査が難しいらしく発見できず。今でも戦車は湖底で眠り続けているという…

その戦車を沈めた場所というのがこの風光明媚な猪鼻湖神社あたりらしい。


なんでも実際に沈められたのを見た人たちが複数いたらしく、かなり信ぴょう性のある話なのですが…どうなんでしょうか?ロマンを感じますか?湖底に沈むレアな戦車伝説!

あともうひとつ、三ヶ日エリアにはもうひとつ、大きな湖&池の定番、ダイダラボッチの伝説もあります。ネタに事欠きませんね。

あと万葉集に話を戻しますが、「万葉の旅」で紹介されているエリアを見ると万葉の時代の人たちが詩情を感じた場所と、現在人気のある観光名所があまり噛み合っていない印象もあります。たとえばわれわれが奈良を訪れる際にはやはり奈良時代の史跡めぐりがおもな目的になると思うのですが…見るべきものを見ていないんじゃないか?なんて気がしてきたりして。


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