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日出る地の東、浄土の西…?

万葉集より

「うつせみの 人なる我や 明日よりは
   二上山(ふたがみやま)を 弟(いろせ)と我が見む」

超訳:この世に生きる身であるこのわたし、明日からは二上山をわが弟とみなすことにしようかしら

「神風の 伊勢の国にも あらましを
   なにしか来けむ 君もあらなくに」

超訳:神風が吹く伊勢の地に留まっていればよかったものの、どうしてわざわざ戻ってきたのだろう。あなたはもういないのに

「見まく欲り 我がする君も あらなくに
   なにしか来けむ 馬疲らしに」

超訳:会いたいあなたもいないというのにどうして戻ってきたのだろう、わざわざ馬を疲れさせてまで


雄岳と雌岳の2つの山頂がある二上山。高い方の雄岳は標高517m。そんなにしんどくない、ハイキング気分で登れる山です。

↑の画像は大阪と奈良の境界にそびえる二上山にある大津皇子の陵墓です。そして上記の歌は彼の姉である大伯皇女が悲運の死を遂げた弟を悼んで詠んだ歌です。超訳は…大意は間違っていないはず(笑)

この画像を撮影した時には小雨が降っておりまして、いつ雨具が必要になるのかドキドキしながら山を登っていたのですが、結果的には悲劇の皇子の終焉の地にふさわしいような、霧がかかったちょっと幻想的な光景と遭遇することができました。

…もっともこれはあくまで結果論で、土砂降りの雨でも降っていたら天に向ってバチあたりな罵声の一つでも浴びせかけていたかもしれませんが(笑)

大津皇子は天武天皇の子、才気煥発で周囲からも愛されながらもかえってそれが義母にあたる後の持統天皇に睨まれ、天武天皇の死後に謀反の疑いをかけられて刑死。大伯皇女は彼の同母姉。

当時の皇族は当たり前のように近親結婚をしていましたが、同母きょうだい同士はタブー。しかしこれら大伯皇女が詠んだ歌は単に親しい弟の死を悼む歌とは言えないような、ちょっと危ない雰囲気が漂っているように思えます…ね?

大津皇子の悲劇の原因は持統天皇の実の息子であった草壁皇子よりも器量が断然優れていたために息子に天皇の位を継がせたかった持統天皇が排除に動いた…というのが定説ですが、そんな異母兄弟のビミョーな関係をうかがわせる歌も万葉集に収録されています。

二人が石川郎女という女性にアプローチをかけているときに詠んだとされる歌

大津皇子:「あしひきの 山のしづくに 妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに」

訳:あなたを待ち続けて山の滴に濡れてしまったよ

石川郎女;「吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを」

訳:わたしを待ってくれていたあなたを濡らした山の滴になりたかったわ

草壁皇子:「大名児が 彼方(そちかた)野辺に刈る草の束の間もわが忘れめや」

訳:あなた(石川郎女)が遠くの野原で草を刈っている間も、わたしはあなたのことを忘れるなんてことは決してないよ

これは邪推になってしまうかもしれませんが、大津皇子&石川郎女の歌に出てくる「濡れる」は単に山の滴に濡れるだけの意味じゃないでしょうねぇ。草壁皇子の歌の「遠くで草を刈っている間」もなにやら意味深。草むらでなにやってたの?って感じ(石川郎女の不実を暗にあてこすってる?)

もっとうがった見方が許されるなら、この草壁皇子の歌に出てくる「石川郎女が草を刈る場所」が大津皇子の歌に出てくる「彼女を待っていた山」ではないか?とも読めそうです。大津皇子を濡らした草が生えた茂みで二人は…みたいな。こうして見るとこの三人の歌はずいぶんと際どい内容になりますが(笑)

さらに大津皇子が石川郎女にこんな歌を贈っています。彼がこっそり石川郎女と逢ったことを「津守連通(つもりのむらじとおる)」という人物が占いで暴露したときに詠んだ歌。

「大船の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて われ二人宿(ね)し」

訳:大船の津守が占いで暴露することを知ったうえで俺たちは夜をともに過ごしたんだぜ

万葉集を含む和歌集に収録されている相聞歌に関してはあまり深刻に受け止めるべきではない、という意見もありますが(中大兄皇子&大海人皇子&額田王のものとか)…

その気ありありで「またわたしを誘ってね」とばかりに大津皇子と楽しそうに戯れる石川郎女、関係がバレても恥じる素振りすら見せずに堂々と交際宣言をする大津皇子、恋のライバルに戦いを挑むわけでもなく未練タラタラの草壁皇子…歌の出来栄えも含めてこの異母兄弟の力量差が露呈しちゃっているような気がします。

おそらく日常生活のさまざまな場面でこうした力量差を知らしめる出来事が頻繁に見られて、それを何度も目の当たりにした持統天皇が頼りない我が子を見て「これはまずい」と危機感を募らせていき…最終的に行動に出たのでしょうか。

1000年以上前の人たちの赤裸々な人間関係や心境や立場が現代のわれわれの前に暴露されちゃう。和歌ってすごいなとしみじみ思います。


↑は大伯皇女が勤めていた伊勢の斎宮があった場所にある遺跡。一部の建物が復元されていたり↓

小規模ながら充実した「斎宮歴史博物館」などもあって伊勢の歴史を知る上でとてもよい場所となっています。↓

なお伊勢神宮では確か初代斎宮(斎王)を倭姫としたと思いますが、こちらは歴史研究がメインということもあって大伯皇女を初代としています。それ以前は「伝承時代」という位置づけ。↓

斎宮跡ではまだ木簡が発掘されていないそうです。これは飛鳥京跡で発掘された木簡のレプリカ


来年の大河ドラマがらみのこれも

伊勢神宮(内宮&外宮)ももちろん素晴らしいところなのですが…

この斎宮跡で「ここで大津皇子と大伯皇女が最後の別れをかわしたのか」とか「大伯皇女が弟の死を聞いて涙したのか」とか「在原業平がこっそり斎宮といちゃいちゃと楽しく過ごしたのか(笑)」などと想像するとゾクゾクしてくるような興奮を味わうことができました。歴史好きな方たちにはこちらをプッシュしたいです。

あとこれはちょっと位置的に強引な面もあるかもしれませんが、大津皇子が眠る二上山と大泊皇女が勤めていた(奉仕していた)伊勢の斎宮とを結んだラインの周辺には歴史上重要な寺社仏閣、史跡がずら~りと見られます。

ちょっとグーグルマップでラインを作成してみました↓


「聖なるライン」とか「太陽の通り道」なんて言われることもあるそうですが、これらの史跡を見ると…

斎宮からはじまって、室生寺は「女人高野」、長谷寺は後述する当麻寺の中将姫(長谷姫)ゆかりの地、さらに前近代には天照大神がこの世に降臨した際の姿とも言われた雨宝童子が祀られている地、そして大神神社&箸墓古墳はおなじみ「箸墓説話」の舞台、加えて大神神社と長谷寺の近くには倭姫が天照大神を祀る地を探してさまよっていた時に一時的に居を構えた「元伊勢」がある。

さらにずっと西を見ると二上山の近くに中将姫と當麻曼荼羅の伝説で知られる當麻寺(&石光寺)がある。あとは二上山の西側には推古天皇陵もありますね。

斎宮は言うに及ばず、これらの史跡には聖なる世界に属する女性の存在と伝説がついてまわるようです。「聖女たちのライン」? これは偶然…ではないように思えますがいかがでしょうか?

これは「女性=祭祀=太陽」の連想によるものなのかもしれませんが、もしかしたら…死した後も失わない大津皇子が発する強烈なモテ男オーラが聖なる女性たちを引き寄せたのでしょうか?(笑)

あと姉と弟のきょうだいと言えばこの大伯皇女&大津皇子の悲劇の姉弟(でもちょっと甘美で背徳的な匂いが漂う)のほかに北条政子&義時の剛腕姉弟(あんまりお近づきになりたくない)、藤原詮子&道長のなかよし姉弟(道長の子の彰子&頼通姉弟も似たような感じ?)、坂本乙女&龍馬の師弟姉弟(どちらも「してい」って読めますね)あたりがまず思い浮かびますが…

ほかに思い入れのある「姉&弟コンビ」はありますか?

それから中将姫&當麻曼荼羅の伝説で有名な當麻寺、現在の本尊はその伝説に登場する當麻曼荼羅ですが、もともとは現在も金堂に安置されている弥勒仏(しかも菩薩じゃなくて未来仏としての如来の形)が本尊でした。それが中世に入って當麻曼荼羅への人気と浄土信仰の高まりとともに「庇を貸して母屋を取られる」的な展開で本尊が変化した…とされています。

なので現在お寺に参拝する際には東の門(東大門)から入ってもともと南北方向を軸に配置されていた境内を横に突っ切る形で當麻曼荼羅がある曼陀羅堂にお参りする…というちょっと面白い形になっています。

これは「浄土信仰への熱が高まる→當麻曼荼羅が人気を得る→當麻曼荼羅が本尊になる」という流れが起こったと考えられるわけですが、それだけではなくて、上述したこの「聖なるライン」への意識もあったように思えます。

もともと太陽が昇る東の向こうに神の領域(伊勢や三輪山)があって、當麻寺はそのラインの西側、しかもその西には太陽が沈む地(そして死者の領域への入り口)としての二上山がある。當麻寺周辺は西方浄土をイメージするのにうってつけの環境ではないか?そしてこの地に住んでいた昔の人たちもこの「聖なるライン」やそれにかかわる歴史や伝説をかなり知っていて浄土信仰の高まっていくなかで全部結びつけたのではないでしょうか?

「西方浄土?この辺ってまさにその入口に位置してるじゃん!しかも當麻曼荼羅なんてステキなものもあるじゃないか?」ってな感じで一気に人気爆発、弥勒仏を差し置いて當麻曼荼羅が本尊になっていった…

なので順番としては「太陽が沈む地(死者の領域の入り口)としてのイメージを現地の人たちが持っていた→浄土信仰への熱が高まる→イメージと浄土信仰が結びつく→この地域の人たちの間で西方浄土への意識がとくに高まる→當麻曼荼羅がクローズアップされる→人気爆発→本尊になる」のような形になりはしないか?

簡単に言えば「當麻曼荼羅が當麻寺の本尊になったのは當麻曼荼羅の神通力と評判によるものだけではないはず」

…という気もするのですが、いかがでしょうか。

ところで、日本人の死後の世界のビジョンとしては仏教が伝わる前から存在し、現在でもなおもっとも日本人の信仰における土台になっているともされる「人は死んだら神になる」という祖霊信仰がまずひとつ。そして仏教によってもたらされた「死んだら浄土に行く(行きたい)」の浄土信仰の2つがとくに大きな影響力を持っているとされます。

では、この地域のような「東の向こうに神の領域、西の向こうに浄土」という環境では、われわれは、死んだ後にどの方角を目指せばいいのか?東か?西か?われわれは最終的にどこにたどり着くのか?

名付けて、

「日出る地の東、浄土の西」

…これが当記事のタイトルとなったわけですが…これはノルウェーの民話「太陽の東、月の西」のパロディです。

この地域を巡る物語としては折口信夫の「死者の書」がよく知られていますが、うまくやればおとぎ話みたいなものも書けるかもしれませんねぇ。


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