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絵巻物、常陸国、浄土真宗、そして筑波のご神木。

先月、毎年実施されている地域ブランド調査と称する「全国都道府県魅力度ランキング」が発表されました。最下位は安定の(?)茨城県。

このランキングを見ると北関東&埼玉県の冷遇ぶりが際立っているうえに上位陣は毎年変わり映えしない顔ぶれで「何の意味があるのか?」と疑問に思わざるを得ないのですが。それに下位にランクしている県に住んでいる人たちからすれば「どこ見てんねん?」とツッコミ入れざるを得ないと思うのですが。

ただこのランキングのおかけで毎年この時期になると茨城に行きたくなるorネタにしたくなる衝動に駆られます👍。

というわけで、

前回、東京国立博物館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」に関するネタを投稿しましたが、今回も。

前回の投稿でも書きましたが同展覧会には歴史関連の本でしばしば資料として紹介される有名な絵巻物がズラ~りと展示されておりまして、「Wow!この実物を拝める機会が来るなんて!」と何度も感嘆の声を(心の中で)挙げたものでした。

そんな実物を拝むことができた絵巻物のひとつに「親鸞聖人伝絵巻」もありました。名前の通り浄土真宗の開祖、親鸞の生涯を描いた作品です。

浄土真宗と言えば信徒数では日本仏教最大規模を誇る宗派、そして歴史好きにとっては戦国時代の影の(ぜんぜん影じゃないよ、って気もしますが)主役とも言える本願寺(いわゆる一向宗)勢力でおなじみの存在。

展示されていたのは同絵巻の「巻第三」の一部、親鸞が常陸の国(茨城県)に布教活動に赴いた場面が描かれたものでした。

加賀に「真宗王国」を生み出し、戦国時代末期には織田信長と熾烈な「石山合戦」を繰り広げた浄土真宗ですが、意外や意外、親鸞存命中は常陸国(茨城県)がもっとも信仰が盛んな地域でした。そのため茨城を含めた北関東は実質上の真宗発祥の地と言われたりもします。

なにしろ親鸞が死に際した遺言状で常陸在住の門徒に対して「娘(覚信尼)と息子(誰のことかは諸説あるらしい)のことをよろしく頼む」と頼んでいたというのですから相当な力を持っていたことがうかがえます。

そしてこれは歴史好きの間ではよく知られていることだと思いますが、浄土真宗は江戸時代以降「十派」と呼ばれる流派が存在しています。その中では檀家・門徒の数は東西本願寺派(本願寺派&大谷派)が圧倒的に多いわけですが、このような状況になったのは15世紀後半の本願寺蓮如(1415-1499年)以降の話。それ以前は真宗高田派や真宗佛光寺派が力を持っていました。高田派は戦国末期に本願寺派と非常に仲が悪かったことでも知られています。

しかもこの本願寺派のルーツは親鸞の墓(大谷御廟)を管理していた先述した覚信尼の一族。なにしろ親鸞が亡くなった当初は浄土真宗の信仰の基盤は関東にあったため、京都のお墓を誰かが管理しなければならない、そこで覚信尼の一族が「留守職」に就任することになった、と。そしてそれが紆余曲折を経て御廟に寺院が建てられ、さらに教団と化していった…といった経緯のようです。

本願寺の宗主と言えばカトリックのローマ教皇と比較されるくらい絶大な力を持った存在…とのイメージもありますが、そのルーツをたどると墓守だったというのですから意外と言えば意外。

また戦国時代に本願寺勢力における軍師のような立場で活躍した下間(しもつま)氏は源頼政の子孫、摂津源氏とも言われていますが、実際には親鸞と行動をともにしていた下人だった下間蓮位坊が直接のルーツと考えられています。しかもこの「下間」姓も現在も茨城県にある下妻市が名字の地とされています。

浄土真宗・本願寺派ともに戦国時代のイメージとはあまり結びつかない面白い歴史をいろいろと持っている宗派のようです。

今回展覧会で展示されている絵巻物はそんな関東における親鸞の活動を垣間見せてくれるものでした。

なおこの絵巻物は本願寺の3代目の宗主である覚如(1270-1351)が親鸞の功績を記念するために作成したものですが、なかなかに複雑な経緯を経ていまして。オリジナルはもともと1295年(永仁3)に親鸞の33回忌に合わせて作られたものの、それは後に焼失。その後再制作&補足が加えられて最終的に完成したのが1343年(康永2)。その後各地で写しが作られながら伝来してきたようです。

たまたまわたくしの手元にこんな↓ステキな本がありまして

岡本喜史・監修 本願寺出版社

この本にも展示されていた「巻第三」が掲載されています。ちょっと見づらいですが…

今回展示されていた「御絵伝」は千葉県の照願寺所蔵のものなのに対してこの書籍で取り上げられているのは滋賀県の赤野井別院所蔵のものですが、基本的な内容は共通している…はず。

展覧会で展示されていた照願寺本は1344年、この赤野井別院本は時代が下って1464年、本願寺中興の祖、本願寺蓮如自身の裏書きがあるものだそうです。


全体図


向かって右側。親鸞一行が常陸国を旅している光景
向かって左側。常陸国に腰を追いつけて居に定めた草庵で説法をしている図

展覧会では右側の旅行中の光景が展示されていました。この光景がどこを描いたものなのかについては諸説あるようなのですが、親鸞が常陸における布教活動の拠点とした常陸国笠間郡稲田荘へと向かう途中、背景は霞ヶ浦を描いたものではないか、と考えられています(現在の栃木県栃木市にあった、松尾芭蕉も訪れた「室の屋島」ではないかとの説も。)。

茨城の笠間といえば「三大稲荷神社」の一角にも数えられる笠間稲荷神社が有名ですが、現在でも「笠間市稲田」と地名が残っています。JR水戸線には稲田駅もあります。

で、この全体図の中心で左右の異なる場面を隔てているのが筑波山ではないか、と考えられています。霞ヶ浦から西へ向かって筑波山を超えて笠間郡稲田荘にたどり着く。地図を見ると筑波山は霞ヶ浦から笠間市稲田を結ぶラインからちょっと西にずれていますが、まあ納得できる範囲内でしょうか。

位置関係はこんな感じです

ちなみに霞が関を背景に旅の途中にある3人の人物のうち中央にいるが親鸞、向かって右側にいるのが下間氏の蓮位坊ではないかと考えられています(右側の人物に関しては別人をあてる説もあり)

そして筑波山には親鸞が立ち寄った伝承と、彼に関わる史跡もあります。これが今回の本題。

日本百名山のひとつ、筑波山には「男体山」と「女体山」の2つのピークがありますが、男体山の山頂(地味な方/笑)の近くに親鸞が立ち寄ったと伝わる岩屋があります。


立身石
説明板


この史跡に関しては以下のような面白い伝承も伝わっております↓茨城いすゞ自動車のサイトにて。

立身石と呼ばれる巨岩は間宮林蔵が子供の頃に立ち寄って出世したことから名付けられています。説明板をご参照ください。

このように親鸞は北関東と非常に縁が深い人物だったわけですが、現在の関東における浄土真宗の状況はどうなのか?となると…

↓は講談社学術文庫刊、井上鋭夫・著「本願寺」から転載したものです。1962年における各都道府県別の浄土真宗の勢力分布図。

約60年前とかなり古いデータですが、現代の仏教界で大規模な宗旨変えが起こることは考えづらいので現在でもそれほど大きな変化はないと思いますが…

ちょっと数字が小さくて見づらいですが、関東地方から太平洋側の南東北は全国的に見て浄土真宗の勢力が際立って弱い地域となっています。

関東地方にお住まいの方なら納得できると思うのですが、寺社巡りをしていても真宗寺院はあまり見かけないですよね。東京に有名な築地本願寺がありますけど。

かつて親鸞その人を支え、浄土真宗の普及に多大な貢献をしたはずの関東の真宗勢力はどこへ行ってしまったのでしょうか?この衰退にはさまざまな理由があるようですが…

現在も盤石の基盤を維持しているように見える北陸の状況(どこへ行っても真宗寺院ばかり!)と比較すると歴史の変転に驚かされます。

ちなみに日本の禅仏教を広めたことで知られる鈴木大拙(1870-1966。アメリカで”Love and Peace”を掲げたフラワームーブメントが流行っていた頃にこの人の著作がヒッピーたちの間でよく読まれていたとか)は意外にも真宗王国、金沢出身です。

この筑波山、日本百名山のなかでもっとも標高が低い山(877m)、登山好きの間からは「なんでこれが百名山なの?」と厳しい声が聞かれたりもするのですが、この山に関しては関東平野に住んでいる人とそうでない人とで評価に大きな差が出るような気がします。

この山は関東平野にポツンとそびえる単独峰、なので山頂から関東を一望できます。そのため関東平野に住んでいる人間が女体山の山頂からの眺望を見ると「こんなだだっ広いところに住んでるんかい!」と妙な感慨を覚えたりします。この感慨を味わえるかどうかで評価に差が出るんじゃないかと。

そして筑波山を含む周辺には巨樹も多数、巨樹・ご神木が好きな人にとっても魅力的なところです。↓は女体山と男体山のちょうど中間くらいにある「紫峰杉」。ちょっと見づらいですが、山の斜面に生えている木は一方の側(太陽が降り注ぐ側)にだけ枝を伸ばす姿をしていることが多いのですが、この巨樹は非常にわかりやすい例でしょうか。

推定樹齢800年。もし親鸞の筑波山行きの伝承が多少なりとも真実を伝えているならばこの樹木が生え始めていたばかりの姿を見ていた可能性もあるわけですが…果たして真相はいかに?

↓紫峰杉の近くにはほかにもいろいろな見どころが…

山麓にある筑波山神社にもご神木として遇されている大杉や、

神門へと続く階段脇に2本並んだ「夫婦杉」などもありました。


さらに筑波山神社のほど近くにある真言宗寺院の「大御堂(筑波山知足院中禅寺大御堂)」には堂々たるシイの巨樹がある…のですが、わたしは行きそびれてまだ見たことがありません(涙)

意外なところではなかなか大きな木のすぐ近くに楠木正成の孫、楠木正勝の墓と伝わるものもあります。


そして筑波と言えば「ガマの油」。なんとそのルーツは大阪冬の陣にあった!というわけで筑波山神社境内にある光譽上人の五輪塔↓


舞台は筑波から離れて再び東京へ…

展覧会が行われていた国立博物館では常設展に本願寺とかかわる面白いものが展示されていました。中国で描かれた寒山拾得図。

時代は一気に飛んで戦国時代末期、石山合戦で激しい抗争を繰り広げていた織田信長から当時の宗主本願寺顕如に贈られたものだそうで、解説にあるように文字通り「いわくつき」の作品ですね。


信長がいつ贈ったのかよくわからないのですが、信長はどういうつもりで贈ったのでしょうか?「僧侶が世俗の争いなんぞに関わるな、おとなしく祈りの世界に引きこもっていろ」みたいなメッセージをこめていたのかもしれませんね。

信長と本願寺と言えばもうひとつ、信長が詠んだと伝えられる歌を一句、紹介したいと思います。

「大阪や 揉まばもみぢも 落ち葉かな」

文字通りの意味では「大阪の紅葉も揉めば落ち葉になってしまうな」みたいな感じですが、信長はこれを本願寺勢力を攻める際の戦勝を祈願するための歌として詠んだと伝わっています。そのため、裏の意味(真意)は「あの大阪の本願寺の野郎どもも俺が本気を出せばたちまちひと捻りで落としてみせるぜ」みたいな感じになるのでしょう。

実際にはひとひねりどころか大苦戦するわけでして、これはよく言われる「言霊信仰」の1パターン、縁起のいい言葉を口にすることでそれが実現することを願う目的のものだったのでしょう。

もっとも本当に信長がこの歌を詠んだのかどうかはわからない面もありますが…こうした歌が伝えられている背景には今も昔も人々の間で信長が本願寺相手に大苦戦したことが周知の事実として共有されていた事情があるのではないでしょうか。


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