『性交』とは高純度の情報交換だという話
私は現在30万PV近くあるブログも運営しているのですが、そっちでこういうのを書いちゃうとGoogleに嫌われてしまうのですよ。
noteもアカウント停止にならんかな?と思いながら以下、書いてみます。
別に生々しいものではありませんし、18禁と言うよりは、未成年の方にこそ知って欲しい内容です。ぜひ気軽に読んでみて下さい。
まず、なぜ性は社会的にタブー視されるのか
なぜ、性に関することは社会的にタブー視されやすいのか?
だって、3大欲求と言われるくらい当たり前に、みんな性欲あるじゃないですか?なぜ隠さないといけないのか?
すごく不思議に思いませんか?
私は思春期の頃これが不思議で仕方なくて、色々な本を読み漁り、原因解明に務めました。
結果、分かったというか、自分なりに確信のある答えを得ルことができました。
その答えとは、「秘め事にした方が社会的に有用だから」です。
情事というのは秘めておいて、簡単には外に出さない方がより価値が高まるのです。希少性=価値ですから。
特別な関係性の間でのみ交わされるからこそ、性交の価値が高まり、その価値故に、男も女もモテるためにあらゆる種類の、惜しみない努力をします。
結果、それが社会的に良い結果を生むのではないか?そんな風に思いました。
では、もう少し掘り下げて、『性交』とは一体何なのか?
これも自分なりに考えたことがあります。
性交とは高純度の情報交換だ
そもそも、この世の見えているもの、聞こえるもの、感じるもの、全ては「情報」です。
これは伝わりますか?
「日光」という情報があるから外に出たら陽の光が網膜に映り、脳が認識するんですよね。
普段、恋人が仲良さそうに会話をしていて、お互いのことを全て知ろうと思っても、とても無理があります。
敏感な人は普段から感じていると思いますが、言葉や会話って思っていること全てを伝えることは出来ないんですよ。
例として「太陽の光」という「情報」を伝達するために言葉で表現し、相手に伝えても、強度や微妙な具合というのは表現が非常に難しい。
せいぜい、「キラキラした陽の光」という程度です。
「どのくらい、どんな感じでキラキラしてるのか」は簡単には伝えようがない。
言葉はある程度の情報量(しかもかなり極わずか)を出力するためのもので、自分が感じている生々しい感覚をそのまま伝達することはとても出来ないのです。
「悲しい」と言っても、自分が悲しいと感じているのが一体どんな気持ちなのか、純度100%で相手に伝わる訳がないんです。絶対に伝えることが出来ない。
「寂しい」なんていうのは、それこそ人それぞれの状況によって感じている「寂しさ」が違う。でも、言葉としては、寂しい感情を「寂しい」としか表現出来ません。
話せば話すほどに相手の理解と自分の感覚の間に差異が生じ、どんどん何かズレてくる。それが会話というものの本質だと思っています。
で、みなさん、『性交のやり方』というのは誰にも教わっていないですよね?
友達から話を聞いたりすることは多いですが、実際に誰かに手取り足取り教えてもらう人は、まぁ特殊な人を除いていないでしょう。
だからこそ、性交の価値がより高まるのです。
どういうことか?
つまり、誰からも教わってないことなんで、やり方に「その人本来」が出やすいんですね。
私は、これがあるため、余計に社会ではタブー視されてるんじゃないかと思っています。
誰彼かまわずオープンに教えてもらうようになると、性交のひとつの重要な意味がなくなってしまうのです。
つまり、性交における触り方、途中の話し方、動き方、全てその人自身のオリジナルな訳です。基本的に誰の手垢も付いていない。
だから、会話なんてものの比じゃないくらいに、「その人自身の情報を発する行為」が性交なんです。
優しい人は一言も話さなくても触り方などにその人らしさが出る。
元から雑な人は雑だし、繊細な人は自然と繊細な触り方や動き方になる。気が利く人は相手が何も言わなくても気が利く動きが出来る。
これ分かりますよね?
要するに、性交中には言葉や会話以上に濃密な「その人という情報」が発せられている、ということです。
触覚や嗅覚、視覚などの五感をフルに使って相手を理解しようとする行為こそが性交です。
だから、身体の相性が合わない人とは、きっと性格も価値観も合わないし、人と人が接する時にベースとなる何か(たぶん、物事に対する感じ方のようなもの)が合わないのです。
以上、相手をより深く知るための高純度の情報交換が性交である、という持論でした。何の根拠もありませんが、”何となくそうだろう”と私の中で解釈しています。
個人レベルでの新しい情報発信のカタチを模索しています。もし発信している情報に少しでも価値を感じたらサポートをお願いします。今後の活動資金とさせて頂きます。