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それでもその孤独を背負い、戦っていく【6/29巨人戦●】

渾身の一球が「ボール」と判定されてしまったら。そりゃもちろん、なんでやねん!と、思うにちがいない。心が折れるかもしれないし、動揺だってする。次の球を投げるには、勇気だっているだろう。切り替えるのには相当の覚悟のようなものが必要だ。

でも、そこで、ピッチャーはストライクを投げなきゃいけない。自信を持って投げた一球が、思った判定と違ったとしても、例えばそれが理不尽なものだったとしても、でも誰もがそういう局面を迎えることはあって、誰もがそこでもう一度勝負をしなきゃいけない。

うめちゃんはここのところずっと、同じ場面で四球を出し、そして押し出して失点をしていた。あの一球が「ボール」の判定になった瞬間、嫌な記憶がよぎった。

・・と、思うのだけれども。

じゃあ自分がハタチの時、世のそういう厳しさに、時に訪れる理不尽さに、切り替えて、まっすぐ挑んでいけていたかというと、もちろん全くもってそんなことは、ない。

なんならハタチなんて恋しかしてなかったし好きな人に対してこちらが理不尽だらけだったレベルだ。(すまんかった。)あの頃の私が自信満々に投げた渾身の一球を「ボール」と言われようものなら、もうその瞬間心折れて50球くらい連続でボール球しか投げられなくなっていただろうと思う。いや、まじめにハタチなんてそんなものだ。

たぶんハタチには、「大人」の支えだってきっとまだ必要だ。それは具体的なアドバイスという形かもしれないし、言葉かもしれないし、もしかすると起用をしっかり考えてあげることや、そしてしっかり「見守る姿勢」とかだってきっと必要なのだ。

だけどもちろん、結局、ハタチだって30歳だって35歳だって、最後に乗り越えていくのは自分自身だ。何かきっかけとなるヒントを周りの大人たちから吸収したら、あとはそれを自分自身で乗り越えていかなきゃいけない。誰だって最後は自分一人なのだ、人はいつだって孤独だ。

それでも投げなきゃいけない。そこで臨機応変に、立ち向かっていかなきゃいけない。多分それが、強くなるということだから。

26歳のてっぱちは今日、2つのエラーをした。チームで一番の稼ぎ頭なのだから、しっかりしてほしいともちろん誰もが思う。だけどてっぱちは4億分の重圧と、たぶん孤独と、もしかしたら怖れみたいなものだって抱きながらそこに立つ。それはきっと、てっぱちの足を止め、手の動きを変えてしまう。1000本安打という具体的な数値を目前にすればなおのこと、いつもと違うプレッシャーはかかるのだと思う。

だけど、それもまた、たぶんてっぱちが自分で乗り越えていかなきゃいけないことなのだ。そういう場面での、そういう日の、そして才能があったからこそ課せられた重圧の、乗り越え方や、良い意味での「力の抜き方」を。

年齢も、年俸も、全く違う人たちが、同じグラウンドに立つ。その人に課せられた役割もまた、みんなそれぞれだ。だけどみんな、最後は一人でその意味を自分なりに理解して、受け止めて、戦っていかなきゃいけない。その戦いは、その孤独は、たぶんみんなが背負うものだ。きっと、生きる人全てが。

いつだって思い通りになるわけじゃない。渾身の一球が、いつだってストライクになるわけじゃない。だけどたぶん、大切なのはそこからなのだ。うめちゃんもてっぱちも、そこから自分で何かを掴み取って、またぐんと成長していきますように。



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