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あの日11号館で「愚直であれ」と学んだように【7/16巨人戦●】

それは結局、恋と同じなのだ。

基本的にはうまくいかないことも、求めれば求めるほど指の間をすりぬけていくことも、本当の気持ちは口には出せないことも。

報われぬ恋なのだと知っている。どれだけ笑っても、例えば同じ時間を過ごしても、その恋が、求めるままの結末を迎えることは決してない。

だけど、それは私の人生にかすかな痛みを伴いながら、ささやかな彩りをもたらす。

誰かにとってそれは、生きているなぁ、と感じられるものかもしれない。それはほぼ痛みで形作られたものだけれど、でも雨に打たれながら、風に吹かれながら、ほんの少しのしあわせに似た何かを感じるのだ。

報われることなんてない、と、なんどもなんども言い聞かせながら。

さて私はなんの話をしているのであろうか。

そうつまり、今日も、ヤクルトは負けた。

そろそろこれは何かの慣用句として辞書に載るんじゃないだろうか。「今日もヤクルトは負けた。」あるいは何かの暗喩かもしれない。「I love you」を「月が綺麗ですね」と夏目漱石が訳したように、私は「今日もヤクルトは負けた」と言い続けるのだ。「今日も雨ですね」くらいの意味なのだろう。たぶん。

追いかけても追いかけても、逃げていく月のように、指と指の間をすり抜けるバラ色の日々なわけである。勝ち星なんて、同点の1点なんて、そんなもんだ。バースデーアーチは幻に終わるのに、永遠のアーチはアーチを描くのだ。だから一体何なんだ、永遠のアーチって。

「いっっっっつも亀井!!!!」と、私は人生で何度口にしたかわからないセリフを先輩にLINEする。(もちろん、これには「いっっっっっつもソト!」バージョンも「いっっっっっっつもバティスタ!」バージョンもある)「亀井ゼミかよ!!!」と、ついでに私は送る。そう、私が大学時代に属していたゼミは亀井ゼミなのだ。亀井先生お元気ですか。

私は多くの人の想像を裏切らず、基本的には不真面目極まりない学生で、つまりはまあだいたい恋しかしていなかったので、勉学のことで記憶に残っていることはほぼまあないわけだけれど、亀井先生が言っていた数々の言葉は、折に触れて思い出す。

例えば「愚直であれ」と、いうこととか。

15年前、早稲田の11号館で、私たちはいつも考えていたのだ。多分、優れた社会人とは何か、ということについて。広告理論研究という名の下に、多分ずっと、社会で生きて行くということについて、考えていたのだと思う。

時は巡り、神宮球場で、目の前のライトスタンドに飛び込んでくる亀井のホームランを見ながら、私はその日々のことを思い出す。仕事をしていれば、生きていれば、社会と繋がっていれば、日々いろいろなことは起こるわけだけれども、だからこそ斜に構えず、愚直に誠実に生きていくことは何よりの強みになる。まっすぐライトスタンドに飛んでくるホームランのように、毎日毎日バットを振り続ける村上くんのように。

だから恋に落ちたかのように「今日もヤクルトは負けた」とため息をついて350円の生ビールを飲み続けるヤクルトファンだって、この報われない日々を愚直に生きる素晴らしい市民だということになる。なりますよね。

恋は報われないけれど、もしかしたら報われないからこそ美しいのかもしれない。報われないと知るからこそ、人は愚直になれるのかもしれない。

とりあえずもう、「いっっっっっっっつも亀井!!!」はやめていただければと思います。明日はビール半額じゃないし。


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