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みんな「悟った不良」になって、大切な人のことを考えて 【5/28広島戦⚫️】

試合の終盤にレフトの守備についたぐっちを、ずっと眺めていた。途中からの出場でも、そこでぐっちはいつものように、グラウンドの土に頭を近づけた。

どんな声が、選手たちに届いているのだろう、とその遠いところから私は思う。そこから見えるこちら側の景色は、どんな景色なんだろう。

ファンはもちろんみんなその試合が勝ち試合であって欲しいと願う。当たり前だ、みんな勝つことを願って応援している。そして選手たちは、勝つために戦っている。目指すものはごくシンプルだ。それなのにそのシンプルなものが、今はこんなに難しい。

目指しているものがシンプルな分、それが手に入らなかった時の落胆が、そしてそれがあまりに長く続く時の痛みがあまりに大きい。SNSにはとげとげしい言葉だって現れる。

もちろん、私にはそれ自体をどうこう言うことはできない。いろんな人がいて、いろんな考えがあって、世界は回っているのだ。「きれいごと」だけでうめつくされた世界が「正しい」とは思わない。

だけど日々、勝つことを仕事にした人たちは、その目標が達成できなかった時、それが続いた時、そしてもし、それに対しての鋭く刺さるナイフのような言葉を見かけた時、どんな気持ちになるのだろうと思うと、少し胸は痛む。

武内さんの引退の日の言葉を、いつも思い出す。

若い選手もいっぱい入ってきて、見られているという周りの目もあった。今までで一番きつい1年だった。うまくなりたいという気持ちは変わらないけど、気持ちの方がきつかったのが大きい。

人間だから、負の感情を持つのは当たり前だ。それを誰かにぶつけることだってあるだろう。そういう言葉が溢れることもあるかもしれない。でもそれでも私は思う。その負の感情で思わず出た言葉で、良き声がかき消されてしまわないように、と。細くても、小さくても、それでもそこに必ず存在する良き声が、どうか選手たちに届くように、と。

そして、村上春樹の言うことをいつも思い出す。「自分はこう思うけど、あなたの言っていることもわかるし、そういう見方もある」という認識はもちろん正しく、それがなければ人生を乗り切っていくことはできないわけだけれど、同時に「それにもかかわらず、あなたがどう思おうが、そんなこと知っちゃいねーんだよ、ふん」と、思わなくちゃだめだ、と。村上春樹はそれを「悟った不良」と呼んでいる。自分の中の「悟った不良」をじっと見つめるとき、私はちょっと笑ってしまう。

2ミリカットの坊主頭にしたエイオキも、はちゃめちゃに打たれたじゅりも、最後のバッターになったおっくんも、スタメンじゃなかったぐっちも、ヒットがまだないたいしも、ホームランを打っても勝てなかったてっぱちも村上くんも、じゅりと組んで勝てなかったいのさんも、途中から出たムーチョも、連敗を背負う監督やコーチも、みんなみんな、ほどよく「悟った不良」になって、他の誰でもない、自分自身と、自分が本当に大切に思う人の顔を思い浮かべて、この苦境を乗りこえて欲しいなと勝手に思う。

五十嵐さんと同じ誕生日に9歳になった息子が言う。

この子が生まれてきてくれたことで、私はこのヤクルトというチームに出会ったんだよな。と改めて思う。負けたって負けたって、どれだけ負けたって、このチームの試合を、子どもたちと一緒に見られるこの時間がやっぱり愛しい。

こちらから見る景色には、そこに立つ9人と、ベンチで見守る人たちの姿がある。そこから見える景色と、こちらから見る景色が、ともにまた喜びであふれるように。大好きな神宮で、雨が上がって虹がかかるように。あの日のように。今はその日を、じっと待つだけだ。



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