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負ける試合で見る、てっぱちの1本の尊さを【7/7中日戦●】

てっぱちが「野球をやってきてよかったなと思いました」と言った去年の試合を思い出している。

あの日、てっぱちはサヨナラの3ランを放ち、お立ち台に上がり、とてもいい笑顔でそう話した。

そういえば今年は、てっぱちのお立ち台をあまり見ていないな、と思う。

てっぱちは22本ものホームランを放ち、それでも、打った試合でなかなか勝てない日が多くある。そんな「記録」を書いた記事も、それをてっぱち自身が気にしているという記事も見かけた。

でもなあ、と、私は思う。

その負け試合で、もしてっぱちのホームランがなければ。その試合はもっともっと味気ない、見どころのない試合になっていたかもしれないのだ。

例えば今日の試合で、てっぱちのあの1本がなければ、試合は0-7で終わってしまっていた。まあもちろん、たいしのヒットは1本あたり5点なので、実質たいしも10点取って勝ちなわけだけれど、それでもやっぱりてっぱちのホームランがあるかどうかというのは、その試合の「彩り」のようなものを大きく変える。

野球は得失点差が順位に全く響かない。どんな形でも一勝は一勝だし、一敗は一敗だ。

だけど、その一つの試合だけに目を向けた時、もちろんそこにはたくさんのドラマがある。一勝に関してはもうどんな形であれ勝ちゃあいい、と思うわけだけれど(まあたまには普通に勝って!とは思うけれども)、特に負けに関しては、やっぱりその一敗の濃度のようなものはそれぞれの試合で異なる。

淡々と負けていく試合もあれば、サヨナラという傷を負う試合もある。それぞれでやっぱり痛みも異なってくる。背負う傷も、そこからの立ち直り方も様々になってくる。

もしかすると負ける時ほど、その負け方が大事だったりするのかもしれない、と、少し思う。それは野球だけではなく、きっと人生のどんな場面においても。そこにどれだけの希望を見出すことができるか、そしてその負けを、次の勝ちにどう生かしていけるのか。いつだって負けることから学ぶことはとても多いのだ。

だからその負けの中でも、何度も何度も何度もホームランを打ち続けるてっぱちはやっぱり、なんというか希望そのものだし、言うまでもなく大切な選手だし、てっぱちが打つホームランはやっぱり、夢へと続く道なのだ。それは、その試合を見ているファンや、一年に一度だけ球場に足を運ぶことができた人や、休日の子どもたちみんなにとっての夢そのものだ。

てっぱちはスターだから、生まれ持った才能も、それを持続する才能もあるから、もちろん見ている方は大きな大きな期待を寄せる。私もつい、てっぱちがそこで大きな1本を放つことを期待するし、そこで併殺に倒れようものなら「おいやまだてつと!!!!!!」と、先輩たちにLINEを送る。でもその試合があっさり負けたままに終わり、後から振り返るとそこに残るのは、やっぱりてっぱちが放ったソロ1本の、その希望だけだったりするのだ。

「でもまあ、てっぱちの1本あったしね。」と、私は今季何度言ったかわからない。いつだってその1本に、救われてきたのだ。

勝つ日も負ける日もある。今年のヤクルトは負け続ける日もたくさんたくさんある。でもたぶん、負けるヤクルトから学ぶことが、いつもたくさんあるのだ。

てっぱちがまた「野球をやってきて良かったです」と言える試合が、今年も来ますように。たくさんたくさん、そこで笑えますように。頑張ることが当たり前の世界で、試合に出ることが、打つことが、走ることが当たり前に期待されるその場所で、「楽しい」とできるだけたくさん、思えますように。


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