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藤井風さんへの手紙

親愛なる風さん、こんにちは。私は風さんの音楽と風さんが大好きないちファンです。いつも素晴らしい音楽を届けてくださりありがとうございます! 風さんの音楽は私の魂のご馳走です。

最近、心の中で風さんに話しかけることが多くなりました。(アブナイですかね?)そこで、思い切って風さんにお手紙を書いてみようか、と余計なことを思いついてしまいました。拙い文章ではありますが、風さんへの私の思いを綴らせて頂けたら、と思います。

風さん、私が最初に風さんに出会ったのは2020年の6月でした。ちょうどパンデミックで世界が戦々恐々としていた頃です。梅雨時で毎日うんざりするほど雨が降り続いていました。私は家の中に籠ることが多くなり、息苦しいような日々を過ごしていました。

そんな時に「何なんw」のMVに遭遇したのです。それは頭をぶん殴られたような衝撃でした。圧倒的なまでのオーラを放ちながら、画面いっぱいに躍動する風さん。いっぺんに私の心は鷲掴みにされました。

それからは毎日がYoutube三昧。素晴らしい楽曲、ピアノ演奏、かっこいいお姿、20代前半とは思えない色気…。すべてが別格の魅力でした。

けれど、何より、一番、私の心を捉え、魅了したのは風さんの「言葉」でした。

〈人は誰しも囚人のようなもの。あらゆる執着を捨て去り、愛を選ぶことによってその牢獄から開放されていく。〉

〈誰のなかにもハイヤーセルフ(神・善なるもの)がいる。そのことに気づき善く生きることが幸せへの道。〉

〈すべては神からの贈り物。幸せに死ぬためにはどう生きたらいいのか。もがきつつ生きていく。もがくことを、生きることをあきらめないで〉

楽曲解説の動画で発せられていたあまりに真っ直ぐな言葉に、私は少しぴっくりしてしまいました。と、同時にとても嬉しかった。同志を見つけたような気がしたのです。

生きることは苦しみと悲しみに満ちています。時に絶望し、死にたくなることもある。なぜ生まれてきたのだろう。生きている、ということに何か意味はあるのだろうか。よくそう考えていましたから。

風さんもその意味を見出そうと、もがき、善く生きることを求めているように思えた。そして自分だけでなく、他者や動植物、すべての生きとし生けるものの解放を願っていらっしゃるように見える。そしてそれを成し遂げようとする気概のようなものを私は感じる。

こんな人って今までいたかな? このような音楽家が混迷のパンデミックの時代に突如現われたことに、神の采配のようなものすら感じて、私は風さんを拝んでしまいそうでした。٩( ᐛ )و なので、実際に拝んでしまう人のお気持ちは分かります。

風さんは信仰をお持ちでいらっしゃるのかな、とは思っていました。信仰というと、この国ではとかくネガティブに捉える方もいらっしゃるようです。もちろんカルトは論外です。

信仰があることによって、善く生きることができるのなら、それのどこが訝しいことなのか、と素直に思います。

風さんが導かれた教え=言葉が風さんの体を通って美しい音楽となり多くの人を魅了している。魂を震わせている。それは紛れもない事実であり、それが「すべて」ではないか、と思うのです。

信仰心、というものの始まりは人類が言語を獲得し、自然界で生きていく中でごくごく自然に人に備わっていった心の動きなのではないかと私は思います。

私は特定の宗教は信仰していませんが、この無限の宇宙に自分が存在している、ということ。このことの不思議さと玄妙さを感じる時、自然と畏怖の念のようなものが沸き起こる。それが私の「神」であり「信仰心」であるような気がしています。

あ! あと私には大好きな樹が何本かあるのですが、彼らに通りすがりに心中で挨拶をする時に神を感じるような気もいたします。(年末ジャンボ、当たりますように!と祈っているのはいったい誰に祈っているのかしら。)

生き惑って古今東西の書物を開いてみれば、何千年も前の人の考え=言葉が現在の私が読んで分かる。言葉は時空を超える。言葉というものは本当に不思議ですね。誰の所有物でもない。すべての人に開けている。これも「神」。

「人生の目的は魂を世話して善くすることである」とはギリシャの哲人、プラトンの言葉です。
風さんも「いい人間になることをあきらめんでください」とおっしゃいますよね。
善く生きることが価値なのだ、と本能的にそう思います。人は自然と「真善美」を求めているものなのだと。

最近、風さんの作品内の言葉について疑問を呈する声が聞かれるようです。ある宗教家由来の言葉を使用していることが問題である、と。

私は「言葉」というものは万人に開いていて、誰の所有物でもない。善き言葉の意味は〇〇某由来の言葉であるからからその価値を失う、といったことは1ミリたりともない、と思います。

プラトンの「人生の目的は魂を世話して善くすることである」。この言葉を例えば極悪非道な死刑囚が発するとして、その言葉の価値は失われるものでしょうか。

また、風さんを愛するファンに対して、心配してくださる方々もいるようです。
「知らない間にファンはその宗教の教えを刷り込まれ、信者となってしまうよ。布教の片棒をかついじまうのさ」と。
有り難いことです。私はその親切な方々にお礼を申し上げたいと思っています。

「ご心配をしていただきましてありがとうございます。けれども大丈夫です。私は自分の意志で生きることも、死ぬことも選べるほど自由です。私は自身にとって善いことだけを行う自由があります。他者に「自由の権利」などというものを要求したり、委ねることがありません。自由と善悪は揺ぎなくすべて自身の中にあります。お心遣いありがとうございました」と。

最近は「そこに愛はあるんか」と、言いたくなるようなことが多いです。顔の見えない人が顔の見える人に対して熟考を経ないまま発せられるネガティブな言葉。呪詛の言葉を発する人はやがてその言葉の毒に自らが侵されていくような気がいたします。そして、逆も然り。

実名と顔を出し真摯に活動されている方々を尊敬しております。覚悟が違う。祝福の言葉で愛を循環しあえたらいいなぁ、と思います。

風さんは「優しさ、って最強」っておっしゃいましたね。私もそう思います。そして、私は「優しさは最上の知性であり、洗練である」と最近思うようになりました。

長々と失礼いたしました。最後までお読み頂きましてありがとうございました!
これからも、私は風さんが届けてくださるご機嫌な音楽を楽しみに待っています。( ͡° ͜ʖ ͡°)

風さん、それでは、

xu ming

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