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人は信じる生きものだ

対話劇「人は信じる生きものだ」


(登場人物)
ソクラテス: ソクラテス気どりの老人
若者: 藤井風ファンの青年
クサンチッペ: ソクラテス気どりの老人の妻。Kazetarian。

 
ソクラテス ヘークッシュン!ヘークッシュン! う~、さむ、さむ、今日は一段と冷えるなぁ。この冬一番の爆弾寒波がきてるらしい。
 
若者 大変だ~!大変だ~!
 
ソクラテス おいおい、そこの君、いったいどうしたんだね。そんなに慌てふためいて。
 
若者 た、大変なんです。藤井風が、藤井風がサイババを…、って、おじいさん、なんでそんなに薄着なんですか? 布切れ一枚巻いたまんまで。寒くないんですか? 風邪ひきますよ。
 
ソクラテス うん。まあ服はこれ1枚きりだしね。薄着健康法、ってのもあるし…
 
若者 何いってるんですか! 鼻水垂れてるじゃないですか。もう、しょうがないなぁ。ウルトラライトダウン、予備で持ってますから貸してあげますよ。
 
ソクラテス うむ、すまないねぇ。ほぉ、こいつはあったかい。おまけに羽のように軽いときたもんだ。こりゃ、いいわ。ありがとう。
 
若者 おじいさん、もうお年なんだから気をつけてくださいよ。コロナだってまだ収束してないんですから。マスクもつけてないし…。
 
ソクラテス ところで、君、何をそんなに慌てているんだい?
 
若者 あ! こんなことしている場合じゃないんだ。あのね、おじいさん、藤井風がサイババの教えを信仰している、って噂なんですよ。
 
ソクラテス 藤井風? サイババ?
 
若者 あ~、そっか。藤井風、おじいさん世代は知らないかもですね。大晦日の紅白歌合戦は観ませんでしたか?
 
ソクラテス 大晦日はプラトンのところで蕎麦打ちをしていたもんでね。あいつは凝り性だから好きになるととことんだ。まあ、おかげで打ちたての蕎麦を食べることができたのだけど、まあ、これがうまかったのなんのって…
 
若者 蕎麦の話はもういいですよ。まあ、観てください。これが藤井風です。(タブレットを渡す)
 
ソクラテス ほ~、これはまた見芽麗しき青年だね。美しい。プラクシテレスなら喜んで彼を彫刻するかもしれない。「死ぬのがいいわ~♪死ぬのがいいわ~♪」か。えらく官能的な歌だね、これは。好きだねぇ、僕は。
 
若者 いや、実はこの歌は恋の歌じゃなくて、自身の中のハイヤーセルフに向けて…って、まあ、いいや。とにかく彼は今、飛ぶ鳥を落とす勢いのミュージシャンなんです。顔よし、歌よし、器量よし、おまけにまるで、友だちであるかのようにファンに優しく接してくれる、っていう人たらしで、そりゃあもう老若男女問わず大人気なんですよ。ほら、このライブ映像みてください。
 
ソクラテス ほう。小さな子供からご老人まで、実に幅広い年代の人がいるね。みんな共に歌い踊ってにこにこ笑っている。おや、泣いている人もいるようだね。感動しているんだね。実に微笑ましいじゃないか。地球大家族の饗宴だ。
 
若者 そうなんです。Twitterでは「藤井風のライブ、デカめの親戚の集まり」なんて呟いてた人もいましたよ。ふっ、でも、なんか宗教集会みたいでしたけどね。ほら、これも見てください。これも、これも、これも…
 
ソクラテス あ~、君。ここまで見せてくれていて申し訳ないんだけどね、実は僕はこの人を知っているよ。
 
若者 そうなんですか! なんだ、それを早く言ってくださいよ。
 
ソクラテス うむ。実はうちの奴がね、大ファンなんだよ。藤井風の。明けても暮れても藤井風さ。初めは「私はバラベレン民よ!」なんて言ってたかと思ったら、そのうち「風民」になり今は「Kazetarian」なんて言ってるよ。
 
若者 なんだ、そうだったんですね。それなら話は早いや。いや、その奥さんもお好きな藤井風がですね、よりによってサイババの教えを信仰しているんじゃないか、ってことなんですよ。
 
ソクラテス サイババ、とな。僕はその人のことを知らないけれど、それが何かいけないことなのかね。君の国では確か「信教の自由」とやらを認めていたはずだよね。彼が何を信仰しようが彼の自由じゃないか。
 
若者 そうです。我が日本国は信教の自由を保障していますよ。けれどね、このサイババ、という奴はとんでもないペテン師なんだ。とにかくこれを見てください。BBCのドキュメンタリーです。
 
ソクラテス ふむ。結構長かったね。よくできた映像だと思うよ。真偽のほどはともかくとして。
 
若者 よくできた映像? 真偽のほどはともかくとして?ですって? あなたの目は節穴か! これは紛れもない真実だ。あのBBC、イギリスの国営放送が制作したものですよ。ひどい! あんまりだ!
 
ソクラテス すまない、君を侮辱するつもりはなかったのだよ。内容の真偽なんて今の僕にはわからないってことをいいたかったんだ。ところで、君はこのサイババの告発映像を真実だと思っている。それは確かだね?
 
若者 当たり前じゃないですか。真実に間違いありません。何回言わせるんですか。だからこんなに炎上しちゃってるんですよ。あの藤井風が、風が…。
 
ソクラテス ふむ。君は真実だと思っている。信じているわけだね。BBCというマスメディアからの情報を。
 
若者 そうですよ。もう、いったいなんなんだ。
 
ソクラテス ところで君はこのことを、サイババのスキャンダルの現場というものを実際にその目で見たのだろうか。
 
若者 なんですって? 何を言っているんです、あなたは。見るわけないでしょ。
 
ソクラテス ということは、BBCからの「情報」というものを信じているわけだね。自分の目では見ていないけれど、BBCが言っているのだから真実だ、と。
 
若者 そうです。BBCですよ。NHKと同じだ。公明正大みなさまのための国営放送だ。
 
ソクラテス 公明正大、と君は言ったね。公明正大という言葉を辞書で引くと「公平で正しく私心をはさまないこと」という意味らしい。BBCもNHKも誰にとっても公平で、正しく、私心をはさまない情報をみなさまのために提供している、と君は思っているのだね。
 
若者 そ、それは…、私もそれなりの大人ですからね。あなたの言わんとすることはわかります。局内にも色んな人間がいるでしょうから、公明正大さを保つなんて至難の業であろうってことくらいは想像できます。それに今の世は力を持ったものが、情報を動かしたりするもんです。腹ただしいことですがね。プロパガンダなんてものは、情報操作なんてものは、北朝鮮だろうが、USAだろうが、日本だろうがどこにでもあるってことくらいは私も分かってるつもりです。
 
ソクラテス まあ、そうかもしれないね。ちょっと前に「エルピス」なんていうドラマが話題になってたね。なかなか面白かったが…。それはさておき、例えばとても公正な記者がいて、出来る限りの注意深さでその情報を公正に取り扱おうとする。けれども、その情報はどうしたってその記者を通してしか発信できないのだから、文章にしろ、映像にしろその人の主観というものはちょっとでも入ってくるものではないだろうか。しかし、完璧な公正さを目指す、という心は紛れもなく公正であると僕は思うがね。
 
若者 …はい。
 
ソクラテス けれど、今はそのBBCのドキュメンタリーの真偽云々を言おうとしているのではない。君がその情報が真実であると判断したことについて聞いてみたいのだ。君はなぜこれを真実だと思ったのかね?
 
若者 え~、そ、それは、真実だと思ったから、としか言えませんよ。
 
ソクラテス なるほど。もし、ABCという放送局があって、そちらではサイババを擁護するドキュメンタリーを放映していたとする。そうすると君はどちらを真実だと思うのだろうか。
 
若者 う~ん、あなた絡んできますね。まあ、ABCの方も見てみないことには何ともいえませんが、今のところ私の中ではもうすっかり反サイババの構図ができあがっちゃってますからね。BBCでしょ。なんてったって。
 
ソクラテス ふむ。要するに君はこのサイババのスキャンダルが本当かどうか、真実は分からないがBBCを信じたいから信じてる、ということなのだね。
 
若者 なんだかなぁ~。そんな言い方ってあります?
 
ソクラテス まあまあ聞きたまえ。君は2たす3は5である、ということを認めるね?
 
若者 藪から棒に何をまた…、当たり前じゃないですか。2たす3は5です。
 
ソクラテス そう、2たす3は5であるということは誰にとっても真実だ。数式の真実というのは絶対であり、これはただ認めることができるものだ。「私は2たす3は5であることを信じます」とは言わない。
 
若者 まあ、そうですね。
 
ソクラテス そう、そこで「信じる」というこの言葉だ。信じる、という言葉は、それが真実であるか、正しいかどうか分からないけれども、私はそう思う、思いたい、という時に用いられるのではないだろうか。
 
若者 うん? え~と、そうかな…?
 
ソクラテス ならば君はどういった時に、この「信じる」という言葉を使うだろうか。
 
若者 そ、そうだな…、どういう時だろう? 例えば、君の愛を信じる、とか、勝利を信じる、とか、神を信じる…、そうだ! 藤井風はサイババの教えを信じているんじゃないですか? 正しいかどうか分からないものを彼は信じている。宗教はみんな「信じる」と言いますよね。だから宗教なんてものはあてにならない。神なんて、科学的に考えたって存在するわけないのは明らかじゃないか。僕は無神論者だ!
 
ソクラテス どうやら君は科学を信じ、無神論者であるようだ。君は立派な科学信者であり、無神論信者なのだね。
 
若者 信者、だなんて人聞きが悪いなぁ。科学は信仰でもなんでもありませんよ。厳然たる事実だ! 断じて御伽噺じゃない。人類は科学によって自然界のあらゆる事象を解明した。そこで得られた知見が人類に与えた恩恵は計り知れないじゃないですか。科学技術は未来に向けてこれからも進化し続ける。科学こそがこの宇宙の成り立ちを解明できる唯一のものである。いにしえの「神」は死んだんだ。そう思いますけどね。違いますか?
 
ソクラテス ごもっともだ。科学技術の進歩により人類は大いにその恩恵を受けている。自然界を客観的に観察することによって、そこから様々な法則性を見出し、それを技術として人類は生かしてきた。このことは揺るぎない事実だ。けれども、君、これもやはりひとつの人間の考え、というものではないだろうか。君は科学によって宇宙の成り立ちを解明できる、といったが果たしてそうだろうか。
 
若者 「シンギュラリティ」という言葉は聞いたことがありますか? 科学技術が急速に進化して人間の想像を遥かに超えた知性があらわれる、なんて思想ですよ。あり得ないことではないと思います。我々の知能を遥かに超えた超知能がいずれ出現するかもしれないのです。そうなったら今の人類が想像もつかないよう事実が分かってくるかもしれない。
 
ソクラテス いずれ、人類だろうが、超知能だろうが、宇宙の成り立ちのようなものを解明できる日はくるのかもしれないね。けれど、宇宙の「What」は解明できたとしても、宇宙の「Why」はどうしたってわからないのではないだろうか。なぜこんな宇宙が存在しているのか、ということ。すべてを創造した神がいたとする。けれど、その神はなぜ存在しているのか。これは神でも分からないのではないだろうか。
 
若者 う~ん…
 
ソクラテス 科学というものはこの宇宙を理解するためのひとつの「考え」である。それを現代の人たちは絶対的な真実だと「信じて」いるのかもしれない。これもひとつの「信仰」ではないだろうか。宇宙はビッグバンによって誕生した、なんていうのは今じゃ、みんなそう思っているけれど、あれだってひとつの説、考えだ。いったい誰が宇宙が誕生した瞬間に立ち会ったことがあるのかね。
 
若者 …。
 
ソクラテス どうやらあまり納得がいっていないようだ。それなら聞くが君の国籍はどこだろう?
 
若者 なんです、また突然に。はい、私は日本国籍をもった日本人ですよ。それが何か?
 
ソクラテス そう、君は自分のことを日本国籍を有した日本人であると思っている。しかし、本当にそうなのだろうか? それはただの思い込みではないのだろうか?
 
若者 おっと、またきましたね。どういうことだ? 今回は…。
 
ソクラテス 日本人である、ということは、日本という国が存在しているということを前提としているね。しかし、果たして、日本なんていう国家が実際に存在しているものだろうか?
 
若者 どういうことです? 今、私は日本語を話している。そして日本国のパスポートも持っている。私は生粋の日本人ですよ。日本国の。私が踏みしめているこの大地は日本なのですよ?
 
ソクラテス いや、君が踏みしめているのは日本ではない。単なる地面ではないのかね。まあ、アスファルトが敷き詰められているがね。そして、君は日本人ではない。君の肉体のどこを探っても日本人、といったものは存在しない。あるのはアジア系の顔立ちをした若い男性の肉体があるばかりだ。
 
若者 え? ちょっと待ってください。何だかよくわかんなくなってきちゃったな。
 
ソクラテス そう、「日本」とか「日本人」といったものは目にも見えないし、触れもしない。それは各人の心の中にしか存在しないという「概念」なのではないだろうか。この世のどこを探しても「日本」というものはない。あるのは大地であり、人間だ。みんな、それがあると思い込んでいるんだね。日本、とか、日本人というものがあると。自分を〇〇人だ、〇〇国のためにこの身を捧ぐ、そうやって思い込んで殺し合っているのが戦争だろう。あるはずもないものを信じて命をかけてまでね。人間とは実に深く信じ込む生き物だよ。
 
若者 …。
 
ソクラテス そういった思い込みのようなものは無数にあるのではないだろうか。お金、というものもそうだね。あれら紙の切れ端や、金属片に価値を与えたものが貨幣という考えだ。あれは考えなのだ。ただの紙や金属片に価値などあろうはずもない。思い込んでいるのだ。価値があると。今の時代は電子マネー、などというものがあるが、まさしくあれは概念ではないだろうか。ブツさえないのだから。
 
若者 確かにそういわれればそういったものはいっぱいあるような気がします。民族、とか、家族、とかもそうなりますよね。
 
ソクラテス そうだね。「同じ血が流れている」といった思い込みによって、同族性を強めた絆を信じているのがそれらだろう。
 
若者 あれ? で結局、私たちは何を話していたんでしたっけ? そうだ、藤井風のサイババ信仰のことだった!
 
クサンチッペ 死ぬのがいいわ~♪ 死ぬのがいいわ~♪ あれ? あんた、こんなとこにいたの? 探しちゃったじゃない。もう、お昼ごはんとっくにできてるんだよ! ちょっと、なんなの、その上着は? どうしたのよ、それ!
 
ソクラテス いやぁ、すまんすまん、すっかりこの若者と話し込んでしまってね。この上着は彼が親切にも貸してくれたのさ。
 
クサンチッペ あら、やだ! ごめんなさいね、お兄さん。この人、あなたにしつこく絡んできたんじゃない? 上着まで貸してもらっちゃって。だからちゃんとあったかい恰好しろ、っていつも言ってるのに!この人ったら、昔のギリシャ人の真似してこんなぼろを1年中着ちゃってるもんだから、ほんと困ってるのよ。これじゃあ、老人虐待してるって近所の人に思われてもしょうがないじゃないの。あんた、いい加減にしなさいよ!
 
ソクラテス まあまあ、落ち着きなさい。ところで、この青年はね、お前と同じ、藤井風ファンらしいのだよ。それですっかり話し込んでしまってね。
 
クサンチッペ あらやだ! そうなの? 嬉しい! あなたも風民ね♡ あ、今はkazetarianか。私の知ってるKazetarianは中高年の女性が多いから、若い男性ファンと会えるのは嬉しいわ。
 
若者 ど、どうも…。
 
ソクラテス この青年はね、憂いているのだよ。藤井風がサイババを信仰していることが気がかりだ、とね。
 
クサンチッペ あれま! そうなの? 
 
若者 ええ、まぁ、そのぅ…。
 
クサンチッペ まあ、最近ちょっとSNS上でひと悶着おこっているな、ってことは気がついてはいたけど…。 でも、さ、風くんが何を信じていようが、わたしらには何の関係もないじゃないの! 何をそんなに心配しているわけ?
 
若者 いやぁ、ご存じないですか? 宗教2世の方々が訴えているんですよ。風まろがサイババの教えをステルス布教しているのではないかと。知らない間に他宗教の教えが、ファンに刷り込まれてしまうんじゃないかって…
 
クサンチッペ どういうことよ! あたしはサイババの教えなんて刷り込まれちゃいないよ。なんでそんなことになるのさ。
 
若者 「Help ever hurt never」とか「Love all serve all」ってフレーズは風のファンならおなじみの言葉ですよね? でも、それらの言葉は実はサイババが言っていた、ってことらしいんですよ。
 
クサンチッペ サイババが言ってたからなんだっていうのよ。言葉は言葉でしょ? いい言葉じゃないの。「常に助け決して傷つけない」、「すべてを愛し、すべてに仕える」。風くんだって、いい言葉だなぁ、って思ったからアルバムに使ったり、みんなにその言葉のよさを広めようとして、グッズにあしらったりしたんじゃないの? 確かに、サイババ、ってわたしら中高年からすると、ちょっと胡散臭いイメージはあるわよ。昔のことだけど、手から砂を出す人、っていうんで一時期話題にもなったしね。だからって、言葉そのものに罪はないでしょうが。これがキリスト教とか仏教からの言葉だったら問題なかった、ってわけ?
 
若者 う~ん、まあ、要するにサイババの評判、ってことなんだと思うんですよ。色々、生臭いスキャンダルが囁かれてる人で、カルトじゃないかって疑惑もあったりで…
 
クサンチッペ それは本当なの? 本当だとしても、なんで、サイババが言ったからって、ステルス布教、ってことになるのかしら。神様のことを歌った歌なんてこの世にごまんとあるじゃない。ゴスペルなんて神を讃える歌よ? 「色即是空」とか仏教由来の言葉だったらステルスにはならないわけ? 仏教だって、キリスト教だって、昔は戦争するくらい血生臭いこともあったじゃないの。なんか、納得いかないわ…。
 
若者 要するにその宗教2世の風ファンは、色々と辛い目にあったなかで、カルトの洗脳の常套手段みたいなことに、すごく敏感になっているみたいなんです。なぜ歌を発表する時にこれはサイババの言葉です、と明らかにしなかったのか、と。もし、明らかにすれば、藤井風の歌は聞かなかった、と。きちんと明らかにしなかったことは信教の自由の侵害にあたるのではないか、と。そういうことらしいのです。
 
クサンチッペ そんな馬鹿なことがあるもんかい! いちいちこれは〇〇さんが使っていた言葉です、とか説明しなきゃいけないの? 何かを信仰しているからって、それもいちいち事前に言わなきゃいけないとでもいうわけ? そんな話聞いたこともない。それで、その宗教2世の人たちはそれを公にしなかったからって、風くんに何を求めているの? 謝罪? それとも、サイババの言葉と知ってたら、風くんの歌は聞くこともなかったから、金でも返せというわけ?
 
若者 う~ん、2世の人たちは、風くん、というよりも運営側に、今回の件について説明を求めようとしているらしいです。
 
クサンチッペ ふ~ん、説明ねぇ。何かを信仰することがそんなに悪いことなのかねぇ。そりゃあ、2世の人たちは色々ご苦労もあったと思うし、気の毒だと思うわよ。確かにそういう人達は宗教といったものに対して過敏にもなるのかもしれない。けれど、藤井風にその説明をしてもらったところで、どうなるというの? それでその人たちのこれまでの心の傷が癒えるものなのかしら。
 
若者 う~ん、2世の人たちは自分たちの経験から、宗教2世についての問題を社会に問うような活動をされていたらしいのですよね。たまたま風くんの音楽に惹かれ、ファンになったら、どうやら彼もいわゆる宗教2世だったということがわかって、ちょっとしたショックだったのではないでしょうか。
 
クサンチッペ はぁ~、なんだか身も蓋もないような話ね。2世の人たちだって、初めはいい歌だな、って素直に思ったから風くんのファンになったわけよね。それが宗教が絡んでる、ってわかったとたんに風くんの曲や風くんにノーをつきつけるなんて、なんだか悲しい話じゃないの。好き、っていう感情は理屈じゃないじゃないの。これこれこうだから好きになって、あれこれそうだから嫌いになる、だなんて、こんな不自由なことってある?
 
若者 まあ、宗教っていっても色々ですよね。日本人なんて、クリスマスを祝っていたかと思えば、数日後には神社に初詣に行く。結婚式はチャペルで挙げて、お葬式は仏前で、なんてそんな緩やかな宗教観じゃない人の方が世界では多いかもしれないじゃないですか。知らない間に他宗教の教えを刷り込まれてしまう、ということが命に係わるような地域だってあるかもしれないのですからね。
 
クサンチッペ まあ、そういう国とかもあるかもしれないわよね。宗教っていったいなんなのかしら。幸せになるためのものじゃないの?
 
ソクラテス まさに、宗教とはいったいなんなのだろう。もともとは宗教の開祖と言われている人がひとりっきりで考えていたことだよね。それをその人やその人の考えを信奉する人が現れて集団ができていった。やがて組織化された団体においては様々な禁忌や儀礼、組織内人事などこの世的な事象が繰り広げられ、もはや開祖の考えとは遠くかけ離れた様相になっていることもままあるようだ。仲間割れによる諍いなど、歴史を見てみれば、宗教を巡る血生臭い対立は無数とある。そして、それらの光景は現代においても変わることなく見られるよね。「我々が正しい」「いや、こちらこそが正しいのだ」とね。
 
若者 そう思うとなんだか、やっぱり宗教って怖い感じがしますよ。それこそ自分の命を捨ててまで、教義に従う、なんてことが実際にあるんですからね。僕には到底理解できないなぁ。
 
クサンチッペ 確かに「盲信」している人とかは、怖いなぁ、と思うし、話もきっと通じないんだろうな、って気もするわ。けれど、私の知っているあるご家族は、宗教を信仰しているんだけれど、本当に素晴らしい人たちなのよ。一家もみんな仲がいいし、慈善活動もされていて、ほんとに心優しい人たちなのよ。そんな人たちを宗教を信じているからって、怖い人たち、危ない人たち、とひとくくりにすることなんてできないわ。
 
ソクラテス そうだね。そういった敬虔で真面目で慈悲深く暮らしている人々には素直にこうべを垂れる気持ちになるよね。神を信じない、といってる人だって、金を信じたり、学歴を信じたり、民主主義を信じたり、ありとあらゆるものを信じている。人は信じる生き物なのだ。こんな生き物はほかにいないだろうね。信じていることの「内容」を云々するのではなく、信じるというこの「形式」を各人が自覚するべきではないだろうか。自分は何を「信じて」いるのか、「信じる」ということはどういうことなのか、一度じっくりと考えてみるといいのだ。そして、信じることなく、誰の考えにもよらず、己の頭ひとつで考えてみるのだ。絶対真実とは一体なんなのか、とね。
 
クサンチッペ 何を大仰なことを言ってるんだい! 要するにこの世間、色んな考えの人間がいるんだから、「お前は間違ってる」「いや、お前の方が間違ってる」なんて言いあってたら、収拾がつかない、ってことだろ?
 
ソクラテス なんだ、お前、ひとことで言ってしまったね。まあ、そういうことだ。みんな自分が正しいと思い、信じたいものを信じている。この世の争いの多くは自分とは違う考えの人間を嫌悪、非難し、その考えを矯正させようというところからきている。小さいものは夫婦喧嘩から、大きいものは国家間の戦争まで、今も昔もまるで変わっちゃいないのだ。このたびのパンデミックでわかったろう。今の時代、地球という船がいかに小さいものになってしまったか。みんなで折り合いをつけて共生していかなきゃ船は沈んでしまう。一発の新兵器で人類も一巻の終わり、なんてことにならないとも限らないのだからね。まあ、たとえ人類が滅亡したところで、それも運命、自然の成り行きなのかもしれないが…
 
若者 そんな無責任なことを言わないでください! あなた方があいもかわらず競争競争と生存競争を繰り広げてきた結果がこうなったということではないのですか? 人類は変わらなければならないんだ。今までの価値観を変えて、まったく新しい価値観を構築していかなければならない。精神の革命だ! それが僕たち若い世代の使命です!
 
ソクラテス うむ、実に頼もしい。未来は君たちの手にかかっている。頑張りたまえ。
 
クサンチッペ そうね、競争競争、進化進化もほどほどに、って感じよね。これからは優しさ、愛の時代だと思うわ。こんな時代に風くんが現れたこと、なんだか、偶然とは思えないわ。まあ、彼にあんまり期待しすぎちゃうのもあれだけど…
 
若者 ヘーックション!ヘークション!!
 
クサンチッペ あらあら、お兄さん!震えてるじゃないの。風邪ひいちゃうわ!長いこと喋り過ぎちゃったわね。うちにきてあったまりなさい。鍋焼きうどん作ったのよ。食べていきなさい!
 
若者 そ、そんな、悪いです…
 
クサンチッペ なに遠慮してんだい! さあさあ、一緒にいらっしゃいな。
 
若者 それじゃ、遠慮なく…
 
クサンチッペ いっぱい食べなさいね! そうそう今日は節分だからね、恵方巻きもあるのよ。今年は南南東の方角なんですって。一緒に福を呼び込みましょう。
 
ソクラテス なんだいお前、そんなこと信じているのかい?
 
クサンチッペ 信じるもなにも、美味しくて楽しけりゃそれでいいじゃないのさ!



池田晶子さんの文章に惚れています。池田さんは現代日本に現れた真の哲人なのではないかと思います。その天才の文章により蘇った「池田ソクラテス」が現代社会をばっさばっさとぶった斬っていくソクラテスの対話シリーズは痛快爽快です。


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