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命題の形をした問いに答えるときに忘れてはいけないこと ——邂逅は悟性に先立つ

多少なりとも論理学を齧った人ならば、何かしらの命題の形をしたもの——「AはBである」とか、ディベートのテーマような「CはDであるべきだ」など——の真偽を問われた時、「Aって何?」「Bであるとはどういうこと?」「何を持って『べき』と言っている?」など、それぞれの部分の定義を深堀りしていけば、最終的に自明な(流石に正しいだろうと思える)核のようなものにぶつかって解決するか、はたまた定義不足で結論が出せないという結論になるか、そのどちらかであるということはすぐ思いつくであろうし、それを念頭においてソクラテスのような問答をすることが多いと思う。

実際、数学や物理などでは初めにいくつかの公理/原理が紹介され、それらを組み合わせて(演繹して)議論がなされる。この時、その最初の公理/原理は正しいものとして「定義」されていて、それゆえに(その議論においては)疑いようがないものとされる。

しかしながら、命題(の形として出力された、質問者の脳内にある概念)に対して真偽を問うというモチベーションに対峙した時の返答として、論理学のフィールドの「定義」というプロトコルに当て嵌めて対応することは、どれほどフェアで、どれほど豊穣なものであろうかというのが、今回のテーマである。

あなたはイヌの定義を知っているだろうか?足が4本だとかワンと鳴くだとか、ホネが好きだとかいうのは、イヌに対しての経験的イメージ(ヒュームの「知覚の束」)であるが、足が3本になろうとも、明日から全てのイヌがニャーと鳴こうとも、あなたはそれをイヌと認識するであろうし、それ以前に、あなたはそのような外延的な性質でイヌのポートフォリオを構築する前からイヌを知っているはずである。

今や生物学というのは一つの学問に括ることが難しいくらいに複雑化し、膨大な周辺領域とのシナジーを産んでいるにもかかわらず、「生物とは何か」という定義に明確に答えられる人はいない。より正確に言えば、もちろん細胞からなることや、自己増殖能力、ホメオスタシス、その遺伝子がDNAであることなどを組み合わせて大声で叫べば、明確な「生物の定義」を与えることになるのであるが、そのような定義で広く受け入れられているものを見たことが(私は)ない。それが満足のいくものでないのは、それが有用ではないからである以上に、そもそも我々の脳内に既に存在している「生物」のイメージを完全に言い当てているものではないからである。

もっと簡潔に言って仕舞えば、あらゆることは定義などされなくても独立に存在しているはずである。人類が絶滅しても夕焼けが赤いかどうかはわからないが、人類がいなくなったからといって夕焼けがなくなるわけではなく、明日も日は昇り、日は沈むのである。夕焼けが夕焼けとなるのは、人類が夕焼けを他の定義を組み合わせて定義した時でも、それを指差して「これが夕焼けです」と言った時でも、それに対して赤さや情緒を見出した時でもなければ、それを夕焼けと呼ぶことに実用性を見出した時でもない。もともと存在する夕焼けに、人類が出会っただけである。

定義というのは、ある概念に対して、それをできるだけ正確に(外界から)指すために地図に名前と道筋を書いたものである。定義というのは、単なる存在と認識のインターフェースであって、定義をこねくり回して最終的な返答とするは論理学の慢心であって、対峙すべきはその奥に退隠している概念そのものなのである。定義の吟味の際にその有用性を考えることは確かに大事なことではあるが、その際に注意しなければならないのは、我々はもうすでにその対象に出会っているということである。そしてその対象は、議論の対象とできる世界とはまた別の世界にあって間接的にしかアクセスできていないということを自覚し、謙虚な心で接さなければならない。

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