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「裸の王様」に付き合わない。

グループ、というものが昔から苦手だった。苦手といいつつ、なんらかのグループにそれなりに属していたとは思うのだが、実はその輪の中には溶け込めていなかったのかもしれない。だからといって別に仲良くしたくないのかというとそんなことはなくて。交流はしたい。でも意味もなくダラダラと時間だけを共有しても、何も生まれないということが多くて。それに意味を感じないというだけ。


学生時代にアルバイト先の人たちとよく飲んだり遊んだりしていたのだけれど、ある時みんなでサッカーのW杯を見ようという話になって。ひとりの家に集まってみんなで酒を飲みながらテレビを観ていたんだけど、みんなの会話にときどき混じりながら漫画を読んでいたら「ちゃんと観てよ!」と言われたことがあってビックリした記憶がある。

でも、楽しんでないのかというとそんなことはなくて。雰囲気を楽しみつつ、試合の動向も把握していたので、自分としては充分に参加している「つもりになって」いた。充分に輪の中に入っている気になっていた。けど、人から見るとそうではなかったようで。一緒にテレビに視線を注ぎ、同じように試合に一喜一憂して、一緒に試合シーンで喜怒哀楽を表現して「共感する」ということが彼らにとっての参加するということだったのだろう。その意味ではきっと「あちら側」から見たら私はとても協調性のない人なんだろう(笑)。

こういう時の正解がわからないあたりで、きっと「馴染めてない側」の人間なのだ。たぶん概ねそんな感じで群れからはみ出したままで生きてきて、今に至る。


いつも少しだけ感じる、なんだか自分がここには「合ってない」という感覚。フィット感とでもいうのだろうか。どこにいても、さっきまで誰かと楽しく笑いあっていても、ふと感じる寂しさというか「こうじゃないんだよな」という気持ちというか。

周囲の人々の行動を観察し、思惑を一生懸命汲み取っても「お前には人の気持ちが分からないのか」と言われたりして。「じゃあお前には今の私の気持ちは分かるか?」と反論したい気持ちをグッとこらえて一生懸命また周りを観察して。

貰っても嬉しくないものを受け取っては、相手の気持ちを考えて「ありがとう!」と満面の笑みで受け取り、頑張って好きになろうとしてみたり。使ってるよ!とアピールしてみたり。

影で笑われていることや馬鹿にされていることを知りながらも素知らぬ顔で普通に振舞っていたら「マイペースで周りを見ていない鈍感な子だ」と思われたり。見ているよ。じゃあ「私馬鹿にされてるんだ」と知った時にどうしたらよかったのか。

観察した結果、自分のその輪の中に入れるように完璧にコピーをしたりして。真実ではない表面的なものを「自分だ」と定義づけて。

もう、そのようなことは終わりにしてもいいんじゃないか。だからそろそろ、その「輪」というものがそもそも茶番なのでは?ということを見なくてはいけないのかもね。その群れそのものが茶番の集合体で、実際のところほとんど機能してないのだと、見えたのであれば口にしなくてはね。「あの王様は裸だよ」と。

実際に口に出さずとも、「彼らは裸なんだ」と受け入れて、自分もそこに留まって彼らに合わせて服を脱ぐのか、それとも自分は服を着ていたいから、服を着ていてもいい世界に移動するのか。それは自分が選べるということを忘れてはいけない。何も無理して裸にならなくていいのだと分かっておくことは、人を自由にする。

そして、何もわざわざ裸の人たちに「裸だよ」とすら言わなくていいのだ。「なんでお前は裸なんだよ!」と教えに行ったり戦いに行ったりしなくていいのだ。ただ単に「私は服を着たいから、服を着る」それだけでいいのだ。それを見て、「アイツは服なんか着ておかしいヤツだ」と笑う者もいるだろうし、「あのように服を着ていいのか」と真似して服を着る者も出るだろう。でも、それにいちいち干渉しなくていいし、煩わされなくていい。そのような心持ちで、今日もどこかで服を着て立っている。それだけでいいじゃないか。




…とまぁ、終わったことを思い返して、整理していくために書いたnoteでした。

平成のうちに書きたいことがいくつかあるのですが、間に合うかな。


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