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昔好きだった人を、今も好きでいられるわけじゃない。


今日は少し前のnoteを読み返してみた。こうして自分の足跡を見返すと発見が多い(ナルシストですみません)。

この頃、とある人との関係を断とうとしてたんだけど、なかなか踏ん切りが付かなくて。そうすると、文章もタイトルも、なんだか踏ん切りついてない(笑)。切らなくてはと言いながら、別れを惜しむ気持ちが満々で、未練たらたらで大変に歯切れが悪い。

結果的に、この少し後に、あまりに「限界!」って感じる出来事があったので、思い切って関係を絶ったんだけど。絶ったら絶ったで、しばらくは思い出したり、落ち込んだりしてたんだけど。時間ぐすりって言うんですかね。最近はほぼ思い出さなくなったし、思い出したとしても、未練のような気持ちはなくて「そんな時期もあったな」っていう感じ。

今思うと「何してたんだろうな」とも思うほどに、馬鹿なことをしてたかも知れない。関係が切れて、だんだん新しい出逢いが増えて。新しい人との出来事が増えて。そうするとだんだん記憶が曖昧になっていく。存在が、消えかけていく。


やっと私は、過去に出来たのかも知れない。昔、報われなかった思い出を、本当に思い出にできたのかも知れない。思い出というには、ひどい出来事だったけれど。そうやって解けた魔法の正体を、直視しては自分の未熟さを笑う。

昔好きだった人を、完全な思い出にできたんだと思う。というか、現在の姿を見て「もう、好きだった頃のその人ではないのだな」というのを、認めただけなんだけど。人に対して、情をかけすぎたのかも知れない。基本的には寛容でありたいのだけれど。そうやって無視し続けた違和感は、自分の身体を壊していく。自分の目を曇らせていく。鈍らせていく。鈍くしないと、一緒に居られないから。

再会してから、おかしいところはたくさんあった。まず、会話が噛み合わない。昔は物知りだなと思っていたその知識は、Googleで調べたら手に入るような知識で、その上辺だけの情報をいくら積まれても私には響かなくなっていた。その人の生き方や哲学の薄っぺらさが透けて見えるようになってしまった。その人なりの見解や視点がない話には、魅力がない。
その時だけの優しさは、その瞬間だけは気持ちがいいけれど、結局のところ、人を大事にする気がないのだということが、見えるようになってしまった。

会話の噛み合わなさはだんだん酷くなり、私の話が「難しくて分からない」と言われた。真摯に、誠実に会話をしようとすればするほど、それは相手にとっては痛いところを突かれるものだったらしい。相手が求めているものは、真摯な指摘や改善ではなくて、「こんなどうしようもない自分を愛してくれ」という自己承認だったのだろう。私はもう、それをあげることは出来なくなっていた。

何かについての感想を話しても、「人それぞれだから」と話し合うことを放棄されてしまった。そうなんだよ、人それぞれなんだから、私はあなたの視点が知りたいのに。結局、それほどの視点はなかったということなのだろう。何度話しても、私には得るものがなくて、それが分かってしまうことが悲しかった。
人を好きになることってタイミングなのだなと思う。昔好きだった人を、今も好きになれるわけじゃない。その瞬間にそうだったからといって、それを永遠に持っていられるわけじゃないんだ。

きっと、変わってしまったのは私の方なんだろう。ハリボテが分かるようになっただけだ。自分がもっと未熟だった頃は、それが本物なのか偽物なのか区別がつかなかった。
あるいは、相手も変わってしまったんだろう。知り合った頃に持っていた純粋な魅力は、月日の中で曇っていって、最初どんな輝きだったのか思い出せなくなってしまったかのような。昔みたいな情熱は、なくなってしまったのかも知れない。擦り切れて消えそうなのを見るのはしんどい。もう別の生き物になってしまったのかも知れない。
人は変わっていく。進化を選ぶ時、周囲のものは何ひとつ持っていけない。固執すべからず。そんな風に言われたことを思い出す。

もう相手と私は、全然違う世界線にいるのかも知れないなと思う。この文章もきっと、ある種のお焚き上げに近い。こうやって、自分の中で消化して、それを何度か繰り返して、単なる出来事のひとつにしていくのだ。



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