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「女神」、「男らしい」-性を含む形容表現について

ヒチョルさんは女神のように美しい。
中島みゆきさんはまるで女神様そのものだった。
イヒョクさんと韩庚は、男らしい、雄々しいのが最高にかっこいい。

ヒチョルさんも中島みゆきさんもイヒョクさんも韩庚も、私の大好きな人たち。この方々を見ると、自然とこういう感情が湧き起こる。

なぜそう思うのか。
女神は女性性、雄々しいは男性性を有している。
ヒチョルさんは男性だが、美しさは中島みゆきさんと同じと感じる。
私が美から女神を連想するのは、中学生の美術で女神の絵画を見て、美の象徴だと学んだことがきっかけかもしれない。

ただ、この表現ははたしてよいものなのかという疑問を常にあった。
大学でジェンダー論の講義を受けてから、それまで自分が知らなかった性の認識があることを学んだ。

かわいい、女々しい、女子力、かっこいい、男っぽい、男らしい

これらはすべて、時として使う相手によって、侮蔑表現になりうる。
「女々しい」は褒め言葉じゃないから当然として、「かわいい」と言われたくない人、「かっこいい」と言われたくない人、いるだろう。

8歳ぐらいの男の子が知らない人に「かわいい」と言われたら「かっこいい」と言ってほしいとムッとするかもしれない。でも、よく遊んでもらっている親戚のお姉さんに愛情たっぷり「かわいい」と言われれば真意が伝わって「そういうもんかな」と受け入れる可能性もある。

個人的に、女子力という言葉は馬鹿っぽいので嫌い。当たり前のように使う人が多いが、よくよく考えてみてほしい。その言葉を使うことで自分たちを卑下していないか。自分たちを女に縛りつけ苦しめていないか。無意識に使って気づいていないだけで、虚しくないか。

性を含んだ形容表現は多い。自分の中で自然に湧き出た感想・表現だとしても、嫌がる誰かがいるものは使うべきでない。たとえ純粋に褒めるものであっても。
言葉狩りという言葉をたまに目にする。これは、平等を意識するあまりに言葉が使えなくなることだと思う。使っちゃダメの意味をちゃんと考えず、考えるのが面倒で「これは禁句なんだ。」とただ暗記しているだけの場合。主に平等になるのが困る人や、社会の変化を煩わしいと思う人に当てはまるのでは。

私は自分の中に、自分でも気づいていない差別心があるのではないかと怖かった。「女神」や「雄々しい」は自然に湧き出た言葉だったから。

しかし重要なのは、言葉そのものではなく、そこに含んだ自らの気持ちなのではないかと思う。誰かを傷つける言葉は使わないようにと気に留めながら相手に敬意を払う。
もし関係性が足りなくて間違えたら、謝る。

「ホモ」や「オネエ」、「オカマ」は、言われて嫌だと思う人が実際にいるのだから使うべきでない。一部、「私は使われて平気!」という当事者もいるが、だからと言ってその人たちはマイノリティ代表ではないから全員が平気なわけはない。
それにこれらは褒め言葉ではなく、相手を貶したり、からかったりするときに使うからどうしても使いたいって人はちょっと大丈夫か。
どうしてそれでも平気で使う人がいなくならないのか。かなり前から「使うの止めようね」という風潮になっていると思うのだが。いいかげん古臭くないか。
他に言い方を知らないとか?
確かに、少し前に20代の若い女の子が「オカマって最近流行ってるよね」「ベテランのゲイが出てるドラマがあって〜。」という会話をしていて目眩がした。昭和からタイムスリップしてきた人なのかと思った。

氷川きよしが方針転換を図って活動し始めたのも「オネエになった」と書かれたツイートが目立った。
怖いんだろうなあ。自分が今まで見てこなかったものを見ると、どうしてもそれまでの古い価値観、枠組みに当てはめて安心したがる。とても自分勝手な行為だ。
分からないんだったら分からないままでよいだろうに。あえて古臭い侮蔑表現を使わないと感想一つ言えないのであれば。
差別意識を認めたくない、氷川きよしに直接届かないと思っている、自分のツイートで傷つく人なんているわけない、という認識なのだろう。

私は氷川きよしさんのファンではないが、好き勝手書かれていてムカついた(TOKIOでマイケルジャクソンの振り付けを取り入れていたのだけ謎で笑ったが)。

自分に関係のないことでもおかしいことはおかしいと言わなきゃいけない。無視したらそのぶん自分にも返ってくるから。だから知らないことは知りたいし、想像したいと思う。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき(下記引用)のように。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

話が戻るが、

多様な性を考える = 平等 = あやふやにぼかす?
「女性的」、「男性的」は禁句か?
どちらかの性に偏った表現は誰かを傷つけるのか?

そうではなくて、一人の人、「私」が誰かと同列に扱われなかったときに傷つくのではないか。特殊と思うこと。例外だと思うこと。

あるYouTube動画を見ていたら投稿者さんが
「○○で有名な人がいるんだけどさ、ん〜名前なんだっけ、あのゲイの人でさ、」
と話す場面があった。
なんだかすごく良いなと思った。この自然さこそ、対等に同列に接するということだと思ったから。差別意識や軽蔑的な感情が少しでも含まれていたら、表情や口調にすぐに出るものだ。
「あそこにいる男性がさ、」と同じノリ。
「そこに茶髪のストレート(straight: 異性愛者)の子いるでしょ。」って会話がどこにいてもふつうに出来たらいいだろうね。

「女性」、「男性」というカテゴリー分けだけ注視していたら物事の本質を見失う。そもそもオスとメスはどうしたって本質的に違いがある。
どの立場の人とも対等に触れ合うことを考えた先に、一周回って男性性・女性性を用いた相手を尊重する形容表現が自然に誰にでも受け入れられていくのかもしれない。


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