うたを、うたう。

最近、歌っている。昨日も歌った。荻窪にあるベルベットサンという、大好きなライブハウスで。

小さい時に「自分は歌うことに向いてないのかもしれない」と気がつき、そこから数年は自分が歌うのが下手であることを確認していく作業が続いた。楽しいことではなかったけれど、感情先行型である自分としては誰に何を言われようと好きなように自分を表現できていれば特段問題はなかった。

高校を卒業する頃には音楽に一生捧げられることを確信し、(両親の理解と援助、それに多少の格闘があって)音楽大学への進学を決めた。と、同時に自分はサックスの技術向上と理論武装への努力を心に誓った。自分には音楽的な教養がたりなかったから。それからはひたすら上を向いて走って今まで生きてきた。長くはないが短くもない時間を音楽への献身に、自分なりにではあるが、捧げてきた。

その少くない時間を重ねれば重ねるほど、分かっていくことがあった。それは絶対でないにしろ、音楽の核となる部分に祈りと踊りが深く関わっているということだ。人々の信仰が様々であるように、音楽への祈りもまた多種多様だ。妄信的だったり、娯楽や、職業的金策だったりする。その多様性を含めて、30年という人生の中で眺めてきた音楽と呼ばれるものは、ある種、信仰であるような気がした。

そして、その中心には歌があった。

本当に、本当に沢山の理由で人々は歌ってきた。それは形がなく、後には残せないが故に、とても刹那的で儚いのに(個人的には根源的なものが大抵そうであるように思うが。人生みたいに。)僕らは知ってか知らずか、いつも唇に歌を滑らせていた。二つの大学を卒業し一層自らの歌がどれほど酷いものかを理解してなお、自分の体の奥底には、抗いようもなく「歌いたい」という欲が赤く燻る炭火のように残っていた。

最近、自分のCRCK/LCKSというバンドで自分一人で歌うところから始まる曲を録音した。その少し前から冒頭で話したベルベットサンでも歌い始めていた。人前で歌うには余りに拙く、人によっては聴くに堪えないものだとは自覚している。(かつての友人たちが堪えられなかったように。)それでも、それでも人が一人生きていく時に必要なものは心を慰める、小さな歌なのだと気づいてしまった。そしてそれは当然の如く僕にとっては必要不可欠なものであった。自分の中にある根源的で純粋な欲望だった。僕の中心にもまた、歌があった。

他のことに比べ、野心的でもなければ、シビアでもない。歌っていたいという、ただそれだけの衝動で、これからも歌っていこうと思っている。それは過去、現在、未来に対する「こうであれば・あったなら」という個人的な信仰であるような気もする。

滑っていく日々の中で明日も、うたを、うたう。

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