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【論考メモ】視覚(景観)と聴覚(騒音)の環境政策

2002年に一人旅でスペインのトレドを訪れました。

大学3年生当時、環境問題を専攻するゼミに所属した際「騒音」と「景観」に問題意識をもちました。きっかけはマリー・シェーファーの著書を読んだことでしたが、同時にどうして視覚(景観)と聴覚(騒音)を分けてしまうのだろう、という疑問がありました。その疑問に答えるヒントを実感したくて、街そのものが世界遺産に指定されたというトレドを訪れました。

ケージによる「沈黙の再発見」は多くの人々に大きな影響を与えました。おそらくシェーファーもその影響を受けたひとりでしょう。そして、「聴くという行為はひとつの習慣になってしまっていて、私たちは聴き方を忘れてしまっている」という問題意識を世に放ちました。

同じ音楽家としてはメニューヒンも、「人工の騒音は、人間が生来持っているはずの音のバランス感覚をだめにする。そうなったら私たちは自然の営みを感じ取ることもできず、互いの会話もなくなる。騒音が心の自然な部分を抹殺してしまう」と騒音問題に警鐘を鳴らしていました。

話はトレドに戻りますが、気品ある静寂に包まれた街でした。

もちろん街の中は人々の生活音にあふれていましたが、全景を見渡せる丘の上に立った時のあの静けさは、筆舌に尽くし難い感覚を呼び起こしました。初めて感じるのに、どこかなつかしさを伴った感覚でした。

その丘の上で偶然で出会った方が大沼博暉さんでした。その時は日本から来ていた要人の通訳兼アテンドをされていて周囲には何人もいたのですが、スペインのそれもトレドで、ひとり黄昏れていたぼくに興味をもってくれて、最初はスペイン語で声をかけられ、ぼくが「えっ?」と反応したら、日本語で「こんにちは」と。そして、もうすぐ仕事が終わるから、よかったら街も案内するし、ぼくの家に絵画も見にきてよ、と誘ってくれたのです。

あの日から、13年。

1969年にトレドに渡って、もう50年近く、毎日家の中や外で絵を描いているけれど、トレドの街は今も変わらない、と大沼さんはいいます。

景観だけでなく音景も考慮した環境保護政策。日本でも地域レベルで、それぞれの自然環境や風土に合わせた政策を、そしてその重要性に気づく感性を引き出す教育をしていかなければ、とますます感じています。

ちなみに、景観だけでなく音景を考慮した環境保護政策といえば、ブータンではその旨を世界で初めて成文憲法に入れました。もちろん21世紀(2008年)に制定された世界でもっとも新しい憲法ですが、人間と自然の共存と持続可能な発展のために大切なことをわかっている国家だと、あらためて思います。




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