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二つの世界

『厳然と二つの世界がある

 真っ二つに割れているが、 それは似て非なるもの

 世界は二つに分かたれている

 神々が、住む処を分けるであろう

 救うことが出来るか、かき乱すのか、

 正反対のベクトルは、永い一元性によって意味を担保されているであろう』


誰しも生まれ持ってこういう性格だ、気質だ、というポイントはあるのかと思います。

私の場合、ある時期から霊的なこと全般に強い興味が湧いてきて、それ以降、私にとっては、二つのモノサシが、世界を視る上で重要となりました。

一つは、目に見えない概念を肯定する考え方、もう一つは唯物的な概念です。

私は唯物的な概念が全く理解出来ないわけではありません。

現実的、現実に限って合理的に見る限りは、幽霊を引っ張ってくることや、先祖の霊に食べ物を食べてもらうことは出来ません。(イギリスでは実験がなされたことはありますが、普通は珍しいことであり、特例でしょう)

霊的な感性を持つ人たちを、 嘘を言っているのか、もし本気で言っている場合は、なにか脳の仕組みか何かが違っていて、幻影を見ているのだろう、という解釈にでも落ち着くところでしょうか。

一方、神秘性や宗教的概念、目に見えないものの力を信じる人たちにとっては、これまた世界は合理的に説明できる面もあります。

例えば、人生は魂を磨くための修行場だ、とか、輪廻転生があるんだよ、というだけで、この世の不合理や、自分がなぜこうした性質を持っているのかなど、納得が行くからです。

それを非科学的だということは明らかに可能ですが、信じない人たちも、何も一つ一つの神秘現象や宗教の概念について、それが徹底的に無いことを論破したわけではないと思います。 ある種、バカにしていたりして、 一笑にふすとか、相手にしない、という態度も多いのではないかと思います。


それで、私の感性や考え方が神秘主義肯定に寄っていて、このように文章書くくらいなのも、これも生まれ持っての私の性質であって、どうやら歴史的には、こういう人種を総合的に言えば本来”宗教的人格”であった、ということになるはずです。

現在の日本では、ややいかがわしいニュアンスで扱われるところも多いですが、神々や仏の存在を伝えたり、神秘主義に思想や人生を立脚させるということは、広義的には宗教的要素を持っていると言えます。

そして私は同時に音楽家であるので、音楽の性質を活かして、人の心に光や癒しを届ける演奏、楽曲を創っていきたいな、という思いと同時に、神秘性に親和性があるところをかけあわせて、霊性の証明に音楽を活かせないか、と思っています。

動機に理由はなく、どちらかというとワケもなく使命感を感じるというのが正直なところです。

(家族や親せきや友人に、そういう人は居ませんでした。)どちらかというとこういう性質は、社会や家族との関係では損をくらうことの方が多くて、私自身も大変苦しんできたところはありました。


いくつか記事は挙げ始めていますが、私自身の立脚点や考えも多少書いてみてもよいかと思ったので、記してみました。

何に生きがいや喜びを感じるかというのは本当に人それぞれ、そしてそれぞれが取り換えの効かない唯一の価値ですね。


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