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楽譜よ、ああ楽譜

楽譜を視覚的に見るのは邪道か

プロはもちろんだが、アマチュアでも楽器の演奏を楽しむ人にとって楽譜は欠かせない。私みたいに自己流で楽器を覚え、見よう見まね、聞きまね(こんな言葉あるか?)で、デタラメに楽器を弾いてきた経験しかない人間には、楽譜を読み、正しく演奏出来るように練習を重ね、次第に音楽を体と頭にしみ込ませることのできる人々がうらやましい。

五本線とオタマジャクシの音符など記号によって表現されているだけ。色は白黒。過度なヴィジュアル表現は必要ない(グラフィックに凝った楽譜はただ見ていてウルサイだけだが、そんなものはないか)。シンプルで清々しい。楽譜を読めない人にはただの暗号に過ぎない。けれど私は視覚的に見ても「実に美しい」と思う。これって変人?直筆のファクシミリも素晴らしい。何が書いてあるかわからないって?それがいいんじゃないかい?誰もが一目瞭然でわかるベートーヴェン手書きのスコアなんて、面白くもなんともないでしょ。近代の印刷による楽譜ももちろん美しいしね。

コンピュータの普及で誰もがデザインもどきの仕事ができるようになったから変なデザインの書籍が氾濫している。ヴァラエティに富んだ色(逆の意味では色の調和感覚がゼロ)や大小種類さまざまな文字(色んな書体を使いたがるんだみんな)で、無茶苦茶なレイアウト。まあ、自称「元気のある誌面」っていうなら、あえて苦言を提示するのは避ける。しかしああいう書籍を読まされると頭が混乱しイライラしてくる。わかってほしい Simple is the best って言葉を。話が脱線した。

そんな後、一枚の楽譜を「見る」のだ。心落ち着く……。鎮静剤みたいに。心おだやかに音符を追いながら一部分を「フムフム」って(ラララの人もいる)口ずさんでみる。できるだけ簡単なフレーズね、もちろん。ベートーヴェンのピアノ・ソナタなら第27番の第二楽章みたいに歌えるフレーズがいい。間違っても第32番第一楽章冒頭などを選んではいけない。第23番第三楽章冒頭もやめたほうがいいですよ、第二楽章にしてください、あれなら歌えそうです、ええ。


楽譜は完璧な記号ではない

楽譜には作曲者が創り上げたメッセージがこもっている。読める人たちは楽譜を読み、頭の中で音楽を組み立てる、いや?イメージするという表現の方が適切か。楽器に向かい、試してみる。音がなる。作曲家たちの音楽が再現されるこの瞬間である。楽譜は時を超えて音楽を伝達する。素晴らしいではないか。

しかし一方で、楽譜の役割とは、実は完璧でないという事実も忘れてはいけない。音符を読め、それを楽器で演奏できる技術があっても、実は音楽としては50%も完成していない。いや、それ以下かもしれない。音符のひとつとってもそうなのだ。

たとえばここに四分音符があるとする。少しゆがんだ●の右端から細い棒が上に延びている、よく見るあれだ。あれは一応一拍といわれているから、四拍子なら四つ続き、三拍子なら三つ続く。三拍子ならターターター、って感じになる(理解しやすいように極端に単純にしています)。これが基本だ。

しかし、曲になると、これをターターターと単純に弾くだけでは不十分なケースもある。タッタッタッとなったり、流れによってはタータータッとなったり千差万別。つまり音符をその通りの長さで正確に弾くだけでは音楽にはならない。でも記号では同じ表記だ。困る。

譜面通り演奏するとどうなるか?これ人間はなかなかでない。なぜなら人間は自分の経験や習性に支配されている。譜面通り、つまり機械的な演奏を簡単にはできない。じゃあ、コンピュータならできそうだな。そのとおり。コンピュータのソフトウェアで音符を並べ、演奏させてみよう。できるだろう?

でも、無味乾燥だ。もう少し表情を入れてなってくれないか?とさえ思うが、コンピュータは忠実に音をならすだけだ。ところが人間が演奏するとまったく違った印象になる。それは三歳の幼児が弾いても違う。人間は所詮機械にはなれない、いや、機械ではないから人間なのだけれど…。また脱線した。

「音符通り、譜面通りに演奏する」というのは表向きのお約束に過ぎない。

つまりこう解釈するべきなのである。音符は記号だが実は記号だけではない。役割は、人間に、この音は「およそこんな感じの音程で長さもこの位です。でも、あんまり過信しないでね。あとはあなたが一番いい音を作ってちょうだいね。」って感じのきわめてアバウトなものなのだ。演奏者はアバウトな記号の意味を理解しながら、想像しながら、各々が相応しい音を創る。

音程も一律でなく、微妙に違う音程で鳴らすこともある。鍵盤楽器は自分で音程を調整できないが、弦楽器や管楽器などは、同じ音程でも曲の要所要所でその都度微妙に異なる音(微妙に高低などが違う、音質や音色と呼ぶこともある)を作りながら奏でている。同じ作品でも演奏者によって違う音楽に聞こえる。音楽の摩訶不思議な魅力はここにある。


作曲者+楽譜+演奏者の三位一体の不思議

記号なのに記号でない。こういう性格の記号を仲介して再現される音楽とはなんとあいまいな、いや、はかない芸術だろう。

美術作品ならそのものズバリが残る。ゴッホの絵なら、そこにまさにゴッホの絵が存在する。東山魁偉画伯が描いたウィーンの風景画は唯一のもので、S美術館のギャラリーにある。長女アヤヤちゃんが幼稚園の頃書いた絵(この場合芸術作品ではない…、親には芸術作品以上の宝物だったりするが)、ケイコさんが書いた書も、由起さんのお父さんが書いて下さった絵もみな実在する作品である。小説も本として残る。島崎藤村の直筆による原稿は、それもりっぱな実在の作品である(小説の場合読まなければはじまらないが…)。

音楽はこうはいかない。音楽家の作品は演奏という手段なくして人の耳には聞こえないのである。その演奏を作曲者自身がする場合はいい。しかし音は一瞬で消えていく。聴衆の記憶の中にだけ残る(録音技術が発達した現在は記録も可能になったが)。

ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた直後に完成させた「交響曲第二番」も、不滅の恋人といわれている夫人直接ではなく彼女の娘さんに捧げた「ピアノソナタ第30番Op.109」も、ベートーヴェン自身による演奏が残っているわけではなく、楽譜が残るのみだ。

だから彼自身の演奏による厚化粧抜きの「ベートーヴェンピアノソナタ集ネイキッド」などというCCCDが日本でのみリリースされることはない。初演を自ら指揮した交響曲第二番の映像が入ったおまけDVDも付けられない。残念だ…。

作曲者自身が演奏に長けていない場合もある。作曲者=演奏者ではないから。作曲者は音楽を創造する才能があればいい。それに、一人で演奏できる曲以外は、作曲家一人で演奏は不可能だ。一度にヴァイオリン二本、ヴィオラ、チェロを弾ける作曲家はめったにいない(←いるはずない!)。まして管弦楽曲、オペラになると実質的に不可能だ(実質的にじゃなく、絶対に不可能だって)。所詮音楽とは作曲家の力だけでは世に出せない運命の芸術なのである。

楽譜は、音楽家たちの創造物を、時代を超えて演奏家たちに演奏の機会を与える重要な仲介役を果たしている。楽譜は完璧な記号ではない。しかし200年も前に書かれた作品を現代に伝えてくれる。演奏家たちはこの楽譜を道しるべあるいは手がかりとして作曲者の意図する音楽を再現する。

100人の演奏家には100通りの演奏がある。一人の作曲者が残した楽譜がたとえば2000人の人々の手元に届いたとしよう。すると2000通りの演奏が音楽が生まれる。これが他の芸術と音楽との決定的な違いなのだ。

作曲家、楽譜、演奏者は三位一体。楽譜はその中で最も目立たないが間違いなく要である。人間には命がある。楽譜は捨てられない限り長く残り受け継がれる。時空を超え音楽を伝えている。不思議だが感動的だ。

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