見出し画像

諦めきれない・「納得させてほしい」の暴力性について(つらつらと)(2024/04/09に書き始めた日記)

ごめんなんだけど、すっごい長い!!!!!!!!!!!!!!!!!だから…読まないほうがいいかも!!!

5000文字弱、pixivの小説だと読了まで10分程度かかるやつだ。しかも以下の文章には一切♡喘ぎもオホ喘ぎも無いし、飛ばし読みでHシーンだけ見るとかもできない。まじで読む字が5000個あるんです。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
でも最後まで読まない人の方が多いだろ⋯!たぶん、おそらく、そう。(アキネイター)
まあいいや、記録として投下します。


日常

こういう桜もオツよな~

これのちょっと前まで水たまりの中を鳩がチョコチョコ歩いていたんだけど写真撮ろうとしたら去ってしまった。

ノートトップページに並ぶ同じ記事

これっていわゆる企業アカウント?宣伝アカウント?みたいな感じなんだろうか。
noteのトップページにずらっと並んでいた。内容も一緒だ。
これ、何の意図があってこんなコピペ記事書いてるんだろ。PV数稼ぎ?


諦めきれない

は~~~~~~~。やっぱ筆圧によるカスレがある絵を見てるといいな~~~!!!って思っちゃう。
私だってねえ!ほんとうはねえ!こんな2000年代お絵描きBBSみたいな線を引きたいわけじゃねんだわ!!!!鉛筆…ペン……DLした素材は山ほどあるのに筆圧感知が2048なばっかりに……!わ~~~~ん!!いいな~~!使いこなせないかもしれないけど、でもその環境があるか無いかっていのは結構違う気がする。



納得させてほしいの暴力性について

ちょっと方向性が違うけど

もう一個、これも方向性が違うけど

ふっくらすずめクラブ、ふっくらファンである方たちからしたら相当傷ついた出来事だったろうから…触れてやるなよ……という感じなんだろうけど…。

ここ数年自分の趣味範囲内で炎上ってなかったのでかなり新鮮で、改めて自分の感情の方向や「推し活」について考える機会となった。

読んでみようかな~!

ふっくらファンよりも心理的に距離があるので(ほかおににも加入してないし…)、部外者が口を出すな!と言う感じになるだろうな…と思いつつ、今のところの所感をちょっと書いてみる。

むにゃむにゃ…と言う感じで……まあ、私がこういった思考をしている…という感じです。
当人たちにはもっと複雑な感情のヒダがあり、情熱があって、思い入れもあるので「一概にそうとは言えない」と言うのが真でしょう。結局、気持ちというのは本人だけのもので外からは見えないものだし。外からやいのやいの言う私のような人間は無粋と言う。そこにいる人の情熱のほうがよっぽど健全で尊いものと私は思います。
その気持ちを脅かしたり、傷つけたりしたい…というわけではないのだけど、こうやってつらつらと考え事するのが好きなので、許してクレメンス。


これはふっくらファンだけではなく、いわゆる推し活をしている人全般に対しての所感なのだが私がオモコロのファンなので話題の温度感としてオモコロが近くなると思う。

まず、私は
「ふっくらすずめクラブは、今回このような事態になったこと(チャンネル名改名・コンテンツの指針変更について)をきちんとファンに説明してほしい」という意見がそこそこ見られた事にかなり驚いた。
かなり湿度の高い思い入れだ。
私的に、オモコロとファンとの温度感って2ch(5ch)の999レス目まで続いたスレくらいの感触だった。
広大なインターネットの2ch(5ch)という僻地で、一瞬だけ存在する「スレ」。そこに偶然一緒になった人たちの刹那的な連帯感くらいのものだと思っていたのだが「ファミリー」(KPOPのファンみたいな)くらいに思入れがある人がこんなにいたんだな。

「コンテンツの方向転換について説明してほしい。」


私はこの言葉を見ると、ファンと推し(コンテンツ)の間に対等な関係性が無くなってしまったな…と思う。
要望の形ではあるが、ここには限りなく「するべき」に近い、つまり「説明の義務がある」という気持ちがあるように見える。

私が考える推しとファンの対等な関係性とは、
推しはあくまでコンテンツ提供者、ファンはコンテンツ消費者と言う立場でありつづけることだ。
サービスを提供する側、
サービスに対して納得しお金(や人生のリソース)を払う側、
ファンと推しの関係はこれ以上にもこれ以下にもならない。
払ったリソースの大きさに関係なくファンは等しく消費者であり、エンタメを支える一因だ。

人間関係は「お互いを個の存在として認識できているか・いないか」
から始まる。
(そうでは無い人もいるだろうが、そういった感性の人は少ない)
「友達みたいな」感覚のコンテンツを演者側が提供していたとしても「友達」ではない。演者側が消費者側に「友達っぽいと思えるようなコンテンツ」を提供していてくれているだけだ。相手が「友達っぽい」反応をしてくれたとして、それも大きく言えばサービスの一環である。
推しが身近な話しをSNSで流してくれたとしたら、推しが消費してもよいプライベート(コンテンツ)を提供しファンはコンテンツを消費しているだけだ。
必ず、絶対に、越えられない壁が推しとファンの間にはある。

だが、ファンには推しを「消費」しているという認識は無い。
ありのままを自分たちに見せてくれていて、信頼されているんだ、と思う。それが嬉しい。身近に感じる。心の距離が近く、よりいっそう親しみを感じる。この時、「推し」は「外」の存在ではなく「内」の存在になる。この過程は誰かと友達になった時に起きるのと同じ心の動きだ。

特に昨今、ライブ配信(演者と消費者の距離が近い)が流行っている中でこの認識の差みたいなものがどんどん広がっているんだろうな⋯と思った。演者側を「外」のものと認識するのが、とてもとても難しい。こんなにも私にとってかゆいところに手が届く話題・視点をくれて、自分の考えに近い事を言語化してくれる。時には励ましてくれるし!まるで友達みたい!

もちろん、エンタメはすべてがフェイクではない。
エンタメだろうが何だろうが、根幹には作る側の哲学がある。その波長が自分の波長とあわさって、感動したり好きだな~と思ったりする。だから身近に感じる事は間違いじゃないんだろうけど……それでもやはり「好意を裏切られた」という気持ちになるのは何か歪な感じがする。いや、「裏切られた」という気持ちが起きるからこそファンなのかもしれないけれど…。

「私がこれだけしたのに、何で同じだけ返してくれないのよ!」という気持ちの不均衡が起きた時、人はその不快感を解消させたいために相手に説明を求める。

ここに私はファン側の歪さを感じるのだ。
たとえば、法的に問題が合った時や社会通念上看過できない事が起きた時「〜べき」として、相手贖罪をさせなければならない。
だが、エンタメはどうだろう…。
もちろん、芸能は(オモコロは広告会社だが、拡散力をライターに頼っている面があるので私はオモコロを広告会社&芸能事務所と思っている)ファンありきだ。
ファンにとって気持ちの良いエンタメを届けなければならない。
それが上手くいかなかった。
消費者を傷つけた。
そういう意味では罪なんだろうが……。
それでも今回のふっくらの改変は「謝って」「説明をする」ほどのことでは無いように思う。
蛇足だが、過去、バーグハンバーグバーグが公的な謝罪を出したのはセブ山さんの人間関係のトラブルについてのみと記憶している。
つまり……会社からの謝罪や説明、処分などの告知は本来このくらいの重さを持つ。被害者がいた時、理念上看過できない問題が起きた時、説明責任と謝罪が行われる。
かなり乱暴な言い方になるが、今回のふっくら改名騒動は一事業部の運用方法の失敗だ。コミュニティで行われた謝罪ははたして妥当なのか?
youtubeなどの、運用資金の大本が視聴者(視聴回数)であるならば視聴者はいわば「株主」であるから説明(弁明)の必要があるようにも思うが…。


こういったファンの言動を見て、私の頭に一番最初に出てくる言葉は「執着」だ。

何に執着しているのか。
それは……私の感覚で言えば、演者側に執着しているのではない。自分の「好き」という気持ちに執着しているのだ。「好き」な気持ちは尊い。何にも代えがたい神聖性を持つ感情だ。何かを好きになった瞬間に、脳みそからばしゃばしゃドーパミンが出てきて、ありとあらゆる方向にやる気が出てくる!世界が明るくクリアに見える!普段言えない事だって言えちゃう!無敵だ!あるいは、疲れ切った心のストレス緩和になりえる。見ていてて気持ちが落ち着く、ほっこりと暖かい気持ちがよみがえる。心のよりどこ。ありがとうありがとう。辛い人生を支えてくれて。もう●●なしじゃ生きられないよ~~~。
私はこれを依存と考える。
「●●があるから生きていける」が、過剰表現でないとするなら依存でしかない。
私は「推す」の気持ちの究極は「依存」であると思っている。
好きという気持ち、自分の感情、存在意義を自分以外のものに託す。
信託だ。
だから「推し」が自分の好きとは違う方向性に走った時「私が好きだったものを壊したな!責任をとれ!」と言う気持ちが出てくるのだ。信じて、託していたのに!何より大切な「好き」の気持ちの置きどころを壊しやがって!どう責任をとるつもりなんだ。説明しろ!私を納得させろ!

もちろん、これは極端な例えだ。
冒頭にも書いたが人の感情って複雑でヒダがたくさんあるし、その日の体調だとか環境だとかで割にブレる。(これが変わらない人は相当情緒が安定している人だ)
だがそこまで的外れでも無い気がするな。

何かを好きな時、好きのバフがかかっている事が気持ちよすぎて離れがたい…というのはそこまで的外れではない気がする。


話が変わるが、私は宇多田ヒカルのファンだが15年以上何度も聞き続けている曲と発売されてから1~2回しか聞いていない曲がある。
それでも私は自分を宇多田ヒカルファンだと思っている。
何故かと言うと…簡単に言えば私も宇多田ヒカルも一人の人間だからだ。
人間だから、好き嫌いがあって、合わない時だってある。
私の「好き」の波長と宇多田ヒカルのクリエイティビティがぴったし合わない時だってそりゃあるよ。
でもねえ、人って変わるものだから。
どっかでまた私と宇多田ヒカルの波長がぴったり合う時があうかもしれないじゃん。そんな期待を持って一旦離れてみる事はそんなに悪い事じゃない気がする。離れたって「戻ってくるかも」っていう予感があれば、それはファンって言って良いんじゃないかな。
新曲が出るたびに聞いてみて、好きだなって思ったり思わなかったり、それでいいじゃんって思うんだよね。


ふっくらすずめクラブの改名騒動の時、傷つくファンたちに対して次に思ったのは(失礼ではあるが)「もっとかまどさんを信じてあげればいいのに…」という事だった。

おそらくふっくらの方針を決めているのはかまどさんだろう。
かまどさんの今までの活動内容から、はっきり言えるのは「かまどさんにはかなり高い編集能力があり、プロデユース能力がある」という事である。

私は現在のみくのしんさんのフィーチャーっぷりはかまどさんによるプロデュースによる力が大いにあると思っている。

そう、みくのしんさんの記事は元々かなり好き嫌いが分かれる文章であった。それがいまやオモコロでのバズといえばみくのしんさんになりつつある。みくのしんさんが、いま、PVの王者であるのは(みくのしんさんの努力の賜物、元々持っていたお人柄が大前提として)かまどさんの力もあるはず。
ここまで出来る人が行った改変なのだから、もうちょっと……もうちょっと待ってみても…よかったんじゃマイカ?!
と、私は思いました。

まあねえ…それでも「つまんね~」って感想を言うのも自由だよね。つまんなくて失望するのも、また、ファンの醍醐味っつうかさ。
私の場合は「つまんね~」と思ったらだいたい「なんで私はつまんね~って感じているんだろ」と言う風に自分の感覚の方に視点が行ってしまって、コンテンツからサッと立ち去ってしまうんだけど、そうじゃない人だって居るってことだ。立ち止まって分析して批評をする人だっている。(私は批評の能力が全然ないので、結構羨ましい)

内省をすること、グロイですか?グロイかな。グロイかも。
私も自分の心のひだをぐいぐい開くような事をやってて、なんて不毛な事をしているんだな~と良く思います。こんなことをするよりも、自分にとって楽しいものを新しく探すほうがよっぽど建設的だもんな。

それでも…茨木のり子の「自分の感受性くらい 自分で守れ」の言葉に感銘を受けた身として、何かがおかしいと感じた時に相手を責めるのではなくて自分の中にどんな変化があったのかを見つめていきたいのです。


まず自分の心配をしなくては!

新吼えろペン4巻 145p



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?