アナログMTR

<音楽古今の戯れ言>

~レコーデイングに関わるあれこれ~

*このテキストは2015年夏ごろにFBに上げた記事を加筆修正したものです。

また、この記事は商業音楽的なモノに対してが中心で、さらに個人的見解なので全てが正しい訳でもなく、知識や感性が足りない上での間違いや、もちろん異論反論も多々あり得ますし、ましてや誹謗中傷をする意図も全くありませんので、どうかご承知置き下さい。

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僕がなぜ70年代以前に録音された音楽を重要視するのか?

それはデジタルに穢される前だったからです。

穢す(けがす)とはどういう事か?。

商業音楽は0と1に数値化されたデジタルテクノロジーに穢されたんですよ。

クラシック音楽の演奏や録音になぜ指揮者がいるのか?

それは指揮者の感覚でテンポを司り、曲調の起伏に応じてリズムや表現を変化させていくためですよね。

70年代に入り、ドンカマ(リズムボックス)はその名の通り、リズムが乱れないためにレコーディング用途でも発達してきたマシンでした。

ドラマーが、または他のミュージシャンがその楽曲内でヨレないリズムで演奏するために、レコーディングでテンポをキープする指標を必要としていました。

演奏上気持ちが高ぶるために、ある必要な瞬間リズムが乱れても(走ったり遅れたりしても)、正常なテンポに戻るための指標だった「だけ」なんです。

つまりきちんと真っ当なプレイが出来る、人間であるミュージシャンを信じて、そのテンポのガイドラインとして、ドンカマ(リズムボックス)は成立してたんです。

テンポは非常に重要です。その楽曲の良し悪しを司る、重要な要素のひとつです。しかしREC時に唄の雰囲気や、アレンジ状況や演奏者の感覚により、REC前に決めていたテンポをその場で上げ下げするのは当時良くある話でした。

また演奏中、正確なテンポの間に音符のリズムが程よくずれる事などは構わないものなんです。良いドラマーやベーシストが曲調に合わせ、もたる、走るではなく、重目、前目でプレイするのが格好いい、気持ちいいことなんて当たり前なのです。

音源のテンポが一定である事、それはその頃から急速に進歩したマルチトラックレコーディングと密接な関係性を持っています。

テンポが合ってさえすれば、それに合わせて他のリズム楽器などが別チャンネルにRECできるからです。またリズムのガイドが正確に入っていれば、コーラスにしてもソロパートにしても当然演りやすい訳です。

ドンカマ(今はクリック)のリズムが一本チャンネルに入っており、それを聴きながら演奏するのは今ではごく当たり前の事です。

でも使えるトラックがもし4chしか無ければそんなチャンネルを確保するのはまず無理ですよね。しかし、そこは当時の素晴らしいミュージシャンの技量で良い音源を残してきたのです。60年代以前はテンポが多少変化する音源なんてざらでした。

そして技術の進歩でマルチトラックが4から8、16、24と増えていく事により、多くのダビングが可能になり、録音された音源はより広がりを持ち、良くも悪くも複雑化していきます。とはいえ、まだ正常な音楽感覚が残っていました。

ところが80年代のある時期、もちろん全てではありませんが、電子楽器・機器、特にシーケンサーの発展に伴い機械の出す情報(テンポ含めて)が絶対であるという前提で音楽が作られ始めました。

そこで全てが変わったのです。

アレンジャーとマニピュレーターが先に作り上げたシーケンスがマルチトラックに録音され、それに合わせる事が最低条件で音楽が作られるようになって来たのです。

ちゃんと自分たちで演奏するバンドや、心ある制作陣の下で作られる音源などは別ですよ。これは80年代以降、新しい物好きの国民性を持つ、日本の歌謡曲等で多く使われてきた手法なんです。

シーケンサーで作られた打ち込みリズムに、シンセベースやギターやキーボードなどが入った音源を作り、最後に生のドラムを差し替えて録音するなど、本末転倒気味なレコーデイングが増えてきました。

まあそれも初期のうちは曲の味付けとして良かったんです。機械の音と生の音がはっきり区分けされていたからです。TR808サウンドやシモンズなどのシンセドラムやゲートエコー、オケヒット位までは流行り物で笑って聴いていられました。

しかしデジタルサンプラーの発達により、より生に近い音源が開発され多用され、デジタルシーケンサーによりおよそ人間業ではないリズムやテンポが登場するようになりました。

刺激物としては良かったのでしょうが、ライブで人間が再現不可能な音源がますます増えていった訳です。

あまりに非人間的なので鍵盤奏者がピアノなどダビングすると、機械的にクオンタイズするのが日常と化していきました。

80年代中盤~90年代当時はデジタルRECの神のお告げにより(笑)シーケンスが絶対のものと化身していったのです。

BPMがまずありきで、隙間無くシーケンサーで制御された音源が埋め尽くしているトラックから基礎が構築されてしまう、現在まで続くREC手法は、真っ当なプレイヤーにしてみれば手枷足枷されて音楽を表現する様なものです。

スタジオで「せーの」で録らないのですから、グルーヴ溢れるスタジオマジックなど起きるはずはありません。

これは2000年代に入ってさらにCDが売れなくなって、制作予算が激減し、DTM機材がますます廉価になり、アレンジャーの自宅での作業が安上がりである事によって、加速され一般化していきました。

高いスタジオを借りて、エンジニアやドラマーにギャラ払うより、アレンジャーに同じギャラで打ち込みさせる方が制作費が抑えられるのです。

プロユースのスタジオは経営が成り立たなくなり、ドラマーやベーシストなどの仕事も減っていきました。

そしてグルーヴのある良い演奏が少なくなり、合わせて唄も平坦なものになり、プロエンジニアによるMIXやマスタリングが行われなくなり、音源のクオリティが下がり、リスナーはますます音源購入から遠ざかり、業界の売り上げも年々減少していく「負のスパイラル」に入り込んでいきます。

アニソンやボカロは音楽性と言うよりも、そのキャラクター性により世界中で人気が出てきてしまいました。

先人が作り上げてきたロックやポップスのエッセンスを二度三度と使い回して、上澄みをすくい上げた音源に陥っている物も少なくありません。

また、DTMがあまりにも簡単に出来るようになったため、音楽を良く知らない、楽器を弾けないアマチュアが恐ろしいオケを作り出すようになってきました。

各楽器のバランスはもとよりリズムが成立してないのです。なぜその音色を、その組み合わせを選んでいるのか意味不明なのです。

もちろん音楽なんて気持ち良ければいいのです。かっこよければ何でもいいのです。でもただやみくもに音源を流し込んだだけの、そんなオケの気持ち悪さをご存じですか?

なぜ日本ではデジタル機器を、うまく利便性に特化し、音楽を歪めずに利用出来なかったのか?それは日本人特有の寛容さ・器用さが原因かも知れません。

「べき」論が「頑固さ」と混同され、内容によっては成立しづらい「柔軟性」と言う言葉に騙されてきました。

「先進性」とか日本人大好きですからね。

まあでも基本は「勉強不足」でしょうね。インプットよりアウトプットの方がやってて楽しいからでしょうね。得た物が少ないから、最初は良くてもだんだん同じような事しか出来なくなるのです。音楽を聴いたり、練習したりする「勉強」は人によっては辛いですからね。

70年代以前の音楽はあなた方がより良い音楽を実践するための、「デジタルに穢されていない」素晴らしい教科書なんですよ。

これまでにいっぱいご紹介してきました。音楽をきちんと表現したいのならば、よく聴いて勉強しましょうね。

それらが体内に取り込まれたら、確実に今より良いメロディが浮かんできたり、演奏が演れるようになりますよ。

「音楽」って「音を楽しむ」って書きますよね。でも楽しむのは作っている、演っているあなただけじゃないんですよ、周りも楽しませる責任もあるんですよ。


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