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「音楽no無駄na昔話」 vol.4

<昔作ったミュージシャンズ・オーディションに関する思い出話>


90年代以降、打ち込み全盛の陰でマーケットが縮小した事で、やる意義を感じなくなり止めてしまったが、80年代中期~90年代初期まで、年に一回のペースでプロのプレイヤーを目指す方向けの「ミュージシャンズ・オーディション」を定期的に行ってきた。

40代~50代のミュージシャンの方は、このオーディションをご存知の人もきっと多いだろう。

オーディションのキャッチコピーは僕が付けた、

「ミュージシャンでメシを食う」

このコピーも当時ちょっと有名だった。

今も昔もだが、一般人対象の音楽系オーディションをやって、合格者のその後の結果がキチンと伴うものはそれほど多くない。

しかし、このオーディションは「合格者は必ずプロにする」と言うのが一番の売りで、それこそが目的だった。

実際、このオーディションの数少ない「合格者」は、今でも現役のプロフェッショナルミュージシャンとして活躍中である。

去年の紅白にも出ていたな笑。

当時はもちろんネットもSNSも無いし、予算も無いので、オーディションの募集媒体は「音楽専門誌」と、リハスタに置く「応募用紙付きのパンフレット」のみ。

しかし何回か続けるうちに巷に噂が飛び交い、最盛期には一次審査応募に500人以上の申し込みがあった。

しかも「東京近郊にお住まいの方」と明記しているのに、日本全国から応募が来たのには驚いた。

募集パートは、Dr・Bass・G・Key・Per・Cho(Vo)で、ソロデヴューしたいヴォーカリストやシンガーソングライターは受け付けなかった。

一次テープ審査の後、二次の実演奏審査に受かった方のオーディション参加費用は一人、5000~6000円を徴収する。

その当時は今とは違いオーディション料など取らないのが当たり前であったが、オーディションのレヴェルを上げたかったし、お金を払ってまで受けるという本気度を試したいところもあった。

周りからは「あそこのオーディション、金取るんだぜ」と陰口を叩かれた。

また80年~90年代初期当時は応募用の音源カセットを作るのも、想像以上に大変だった時代だ。

カセットMTRもあるにはあったが、まだ高嶺の花。もちろん誰もコンピュータなど持っていないのだ。

一番多かった応募テープの内容は、ラジカセ一発取りで、例えばオケも無しでベースの音のみ単体で入っている奴。

当時のスタッフも頭を抱えていたが、それでもグルーヴ有り無しを判断し、よくぞ選んだものだ。笑

オーディションパンフには下記の注意書きのジョークを載せた。

★このオーディションに合格するには、以下の悪質な副作用があります。

1、応募テープを自分で作らなくてはならない。

しかも戻ってこない。

2、二次審査受審には金を取られる。

しかも値上げした。

3、審査員の前で生演奏しなくてはならない。

しかもその日初めて会ったメンバーで。

なおかつ、合格しても賞金や賞品の類は一切無い!

「ただし、プロになれます。」

とはいえ、二次の実技審査内容と方法は、思えば画期的で実践的であった。

当時の邦楽のヒット曲など二曲の課題曲をまず決め、スタジオを借りてプロミュージシャンでわざわざレコーディングし、MIX作業で各パートごとのマイナスワンテープを作成する。当然GやKeyのソロパートもある。

オーディション後期には、オーディションの為だけのオリジナル曲をわざわざ課題曲として作り、レコーディングした事もあった。

審査しやすくするための、ソロパートや難解なコード進行やリズムパターンが配置された、インスト曲であった。

そして、プロのアレンジャーがキッチリ書いた譜面と共に、その音源カセット(クリック入り。全パート入りと自分のパートの音が抜けているもの)を、二次審査へ進む受審者全員に送付する。

そして一か月以上の練習期間を与えた上での「実技審査」を、二日がかりで行うのだ。

それもプロユースの都内最大のレコーディングスタジオを、わざわざ借りて開催した。

現場では楽器やアンプやモニターシステムもエンジニアも全部揃えて、ドラマーにはヘッドフォンでクリックも送る。

Drセットやアンプや鍵盤の種類・内容も、全て事前に通達する。

ここまでの周到な準備を行ったオーディションは、他には無いと思う。

審査は無作為に選んだ各パートの受審ミュージシャンを、その場でいきなり組ませて、二曲の課題曲を演奏させるというもの。

もちろん譜面は見てもいい。

その実技演奏を、僕を含む会社のスタッフやレコード会社のディレクターなどと、過去の合格者も含んだプロミュージシャンが、項目ごとに点数をつけ、審査をするのだ。

判断基準は「即戦力でプロとして使えるか?」その一点である。

そこそこ巧い奴はスタッフに指示して残し、2、3回演奏させる。

すると演奏が安定するので、新しくアンサンブルに入った受審者の演奏レヴェルが判りやすくなる。

ソロも完コピする奴や、自分のテイストで弾く奴も様々で面白かった。

まあ一日何十回も聴くので、曲には飽きるが笑。

課題曲が歌モノなので、仮歌のプロヴォーカリストも混ざって、同時に歌ってもらう。

つまりライブと同じ環境で演奏させ、判断するのだ。

歌をちゃんと聴いて演奏しているミュージシャンはすぐ判る。

ある回の時には、課題曲に選んだヒット曲を歌うその本人(今や誰もがリスペクトするスーパースター)がたまたまスタジオに来ていて、調子に乗った本人が審査中に生歌を歌ったこともあった。

さぞやその時の受審者はビビった事だろう笑。

毎年受ける方も何人もいたが、残念ながら合格には至らなかった。

たとえ、一年間必死で練習しても追いつけない事象があるのだ。

実は「こいつ、バンドのギタリストやドラマーなら最高だな」って人も何人かいた。ロックだけやらせたら巧い奴とかは、結構いるのだ。

しかしプロの現場はそれだけでは通用しない。様々な対応力が必要となってくる。

そんなこんなの中「合格者」のハードルは審査員判断の基準が年々高くなり、「合格者ゼロ」の年が続いてしまった。

審査員同士で口論になる事もしばしばあった。

何とかしようと僕が審査員から抜けた事もあったが、かえってただ基準が上がっただけかもしれない笑。

最終期続いた「合格者ゼロ」はオーディションを止めるきっかけでもあった。

バブル崩壊後しばらくして、仕事が激減した事も理由の一つだ。

またオーディションに掛かる費用は参加費を加えても大赤字で、差額は全て会社の持ち出しであった。

あえて名誉のために言うが、このオーディションでは全く儲かっていません。

さらに、歴代の「合格者」は僅か数人だった。

ただ「準合格」という形で各パートから何人か選び、仕事を与え、その後プロになった方も少なくない。

「期待合格」ってのもあったな、不合格にするのは惜しいというやつ笑。

何年か後、飲み屋でたまたま売れっ子プロミュージシャンやバンドでメジャーデビューした方と出会い、自己紹介すると「あー僕、そちらのオーディション受けたんですけど、見事に落ちたんですよねー・・」と恨み節を聞かされることも何度かあった笑。

きっとその時は緊張か何かで、彼らも実力を出せなかったのだろう。「ごめんなさい」と言うしかない。

募集パンフレットの最終号に寄稿して頂いたグーフィ森氏(福山雅治プロデューサー、イカ天審査員でも有名)が、ポール・マッカートニーとの食事会で語らったオーディションに関わるエピソードを取り上げつつ、以下のようにメッセージを締めくくっていた。

”もちろん、このオーディションは無責任でハンパなものじゃない。ボクは、日本でもっとも実践的でもっとも厳しいもののひとつだと思っている。だからこそ安心して欲しくないのだ。~中略~オーディションはあくまで”はじめの一歩”であり、用意された”扉”にすぎない。その後は、自分自身の問題なのだ。”

このミュージシャン専門オーディション開催の意義と成果は、当時の音楽業界と音楽家に多少の貢献をしたのかも知れない。

多分アマチュアミュージシャンへ、プロへの”扉”を見せた事にもなるだろう。

むろん、このオーディションに参加せずともプロになった方は数多くいる。

あえて受けなかった方々もかなりいるはずだ。

ただ、このオーディションが、そういった職業の厳しさを理解する端緒にはなったと自負している。

そして、その頃プロを目指す連中は「ヴァン・ヘイレンって誰ですか?」とは決して言わなかったに違いない。

この稿終わり

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