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「音楽no無駄na昔話」

さて、高田純次が明かした「歳をとってやってはいけない3つのこと」の中のひとつ「昔話」をやってみる笑。

本当に興味のある人だけ、時間のある時に読んで下さい。音楽関連とはいえ40年前の話だし、かなり個人的だし、別に何の役にも立ちません。しかも相変わらず無駄に長文なので笑。

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ラジオ、そしてTVという情報網が世界を繋ぎ初め、音楽シーンに60年代から影響を与えたのはプレスリーやビートルズやストーンズだけではなかった。

ウッドストック・フェスのニュースが伝わり、様々な様式のロック・ソウルの萌芽が芽生え、音楽業界は1970年ジミ・ヘンやジャニスの死を悼みつつも、その後も次々と新しいバンドが生まれ、米国のレコードレーベルは見事なマーケティング力で乗り越えた。

ベトナムの戦火は途絶えることがなかったが、アメリカ本土で若者は、現実の知人の「死」を突き付けられ、多様な刺激と興奮をもたらし、それに伴う音楽の変化とマーケットはとどまることなく大きく広がっていった。

黒人差別撤廃運動の最中、モータウンから進化を計ったブラックミュージック界隈でも、マーヴィン・ゲイやダニー・ハサウェイを送り出し、米南部サウンドと併せて日本でもそこそこアンテナを張った信者が増幅していた。

J・ブラウンが発明したファンクサウンドが拡大を始め、SlyやP-ファンクが現れ、WARやAWBなど白人と黒人の融合サウンドは、政治や戦争とは無関係に米国以外も含めて更なる成長を続けていた。

その広がりは米軍基地が点在する日本にも、もちろん無縁ではなかった。

ベトナム戦争がアメリカの敗北でようやく終わり、僕が音楽業界と関わりだした1977年以降。

日本の音楽シーンは欧米と同様に正しく活気づいており、マーケットは洋楽ヒットと共に急速に広がりつつあった。

演歌や歌謡曲、アイドルポップスに混ざり、グループサウンズの血を引いた一部のバンド・ミュージシャン連中が、そして若手の志を持つ方々がディラン経由のフォークだけではなくロックに目覚め、サウンドが大きく変わりつつあった。

言語が違うという現実を、日本のミュージシャン達はなんとか受け入れつつ、日本語のロックやソウル/R&Bが確実に都市圏中心で醸成されて来ていた。

レコード売り上げとライブ数も正比例し、高度成長期にありがちな右肩上がりグラフを書き続けていたように思う。

70年代半ば、東京では新宿、渋谷、荻窪、吉祥寺などに今でも著名なライブハウスが次々と開店し、活況を呈し始めていた。

そんなターミナル駅のひとつが下北沢であった。

僕は1976年大学二年で下北沢に移り住んだ。西口から徒歩一分の線路に面した古くさく、電車の音がうるさく、その分家賃が安い1Kのアパート。

でも僕にとって当時の下北沢は天国のような街だった。

ここに暮らしていれば、歩いて行ける範囲内で買い物初め、日常の必要な事、楽しい事は全て網羅出来たのだ。

もちろんバイト先は下北沢で、そこで知り合いになった方の紹介で、半年で三つくらいは変わったし、それでなくても働く場所はごまんとあった。

住んでいたのは風呂もないボロアパートだったが、安い食堂やら洋服屋やら、行けば知り合いに会う音楽喫茶やバーなど下北の衣食住はもう完璧だった。

隣のアパートには地元の洋服屋に勤めるサーファーの美男美女のカップルが住んでいて、時々夕食に呼んでくれて、当然音楽好きで色んな曲を教えてくれた。

音楽の話が通じるミュージシャンも友達も先輩も大勢いて、バイト終わりで毎日行く店などありすぎるくらいだった。

というかバイト先に業界関係者もレコード抱えてしょっちゅう来ていて、様々な音楽を聴かせて貰えた。

パチンコ屋はもとより、当時は映画館すらあった下北から他の街に出かける必要性を全く感じなかったし、退屈を覚える暇も無かった。

僕は水道橋にある大学に在籍していたはずなのだが、たまに顔出す程度で、それ以外で電車に乗って出かけるとしたらコンサートかライブハウス、渋谷や溜池の輸入盤屋くらいであった。

ということで、僕は知人も居て、当時地域で唯一のライブハウスであった下北ロフトには良く行った。

*写真はオープン当時の下北ロフト入り口。

もちろん地元下北のバンド、金子マリ&バックスバニーは出演の常連だったし、ダディ竹千代&東京おとぼけキャッツは見事なショーマンシップで話題となり、ライブの度にトマトや豆腐が消費された。

シュガーベイブ解散後も山下達郎は様々なセッションで出演してカヴァーを歌いまくっていたし、同じステージで山岸潤史は天井にストラトをぶっさして弾いていた。

個人的にも、僕の大学1年時に関わりマネジメントの真似事をしていたバンドも2,3回ブッキングして貰ったし、初めてレコーディングに関わった、紀ノ国屋バンドも良く出ていた。

フォーク勢もAG一本で見事な「ROCK」や「SOUL」を表現していて、曲調はフォークでも「魂」はロックだった。

関西からは、上田正樹だの桑名正博だの元ウエストロードのメンバーでのセッションだの、ソウル・ファンク・ブルースバンドが定期的に訪れ、カシオペア、パンタ&HAL、渡辺香津美、ブレッド&バター、大貫妙子、チャクラ、金沢からはT-BIRDなどが出ており、、ロフト企画のセッション(例えば、vo山下達郎、g野呂一生、b鳴瀬喜博、key難波弘之、sax中村哲、dr村上ポンタ秀一)なども頻繁に行われ、それぞれご機嫌なグルーヴで楽しませてくれた。

76年~79年頃までの出演者リストが下北ロフトのサイトに残っているが今見ても、もの凄いメンツである。

サザン・オールスターズもRCサクセションも出ていた。

下北ロフト1978年スケジュール

まだメジャーシーンではそんなに売れている方々ばかりではなかったが、少なくともみんなライブの「プロフェッショナル」だったと思う。

オリジナルだけではなく、必ず自分たちが得意とする欧米のミュージシャン達のカヴァーを取り入れ、観客との一体感を見事に作り上げていた。

いまでこそ下北沢は「演劇」の街とも思われがちだが、その当時は圧倒的に「音楽」と「ミュージシャン」の街であったのだ。

ライブが終わるとロフトに残って飲む連中や、顔なじみの音楽居酒屋に移動して明け方までレコードを聴いて「50年代~60年代や最新(つまり70年代)の音楽」の話で盛り上がる連中に混ざり、たまに喧嘩や色恋沙汰が繰り広げられた。

僕や先輩方は本当に「毎晩」下北のどこかの店で飲んでいた。

麻雀のメンツが足りないから来いと言われ、行ってみるとカルメンマキが煙草くわえて待っていたり、なじみの店に立ち寄ると、Charがぽつんと一人飲んでたりした。

一番街か、東通りを夜遅い時間に歩けば、知り合いの誰かと必ず出くわした。

そんな中でレコード会社やプロダクションやイベンターなどのスタッフ勢や、ほとんど山師のようなおいしい話を持ちかける輩も混在した。

ライブ後の出会いの中から様々なアイデアや、仕事として成立する話が、飲み話のおまけで毎日のように生まれていたのだ。

携帯電話などもちろん無い時代だったので、誰かと会いたければ昼間連絡するより、夜、飲み屋廻りする方が会う確率が高かった。

先日、僕の店のライブに出てくれたその頃からの友人、Perマック清水と当時のことを述懐しつつ話した。

「76年頃からの数年は激動だったよ。一ヶ月毎に新しいプロジェクトがとにかく生まれて、次々と声をかけられていたんだよね」

76年に新宿ロフトがキャパ300で開店し、日本でもロック黄金時代が到来した真っ盛りで、僕らと先輩方はメジャーとかアマチュアとかどうでもよく、その中で出す玉を虎視眈々と狙うメーカー連中と渡り合ってきた。

大手レコード会社は時流に乗って、ロック・ポップス・フォークなどが渾然一体となった日本語の音楽シーンを「ニューミュージック」などというネーミングでカテゴライズし、魔術のようにヒットシーンを定着させた。

レコード会社すらも乱立してきて、胡散臭い連中も登場し始めた。

新宿や原宿や青山・六本木を根城としている業界スタッフ達が下北沢に遠征してきていた。

レコードさえ出せばある程度売れるという時代だったので、誰もがネタ(ミュージシャンやら企画やら)を欲しがっていた。全国にレコード屋も十分にあり、流通網の維持と確保のため、とにかく商品が必要だった。

ちょっと名の知れたミュージシャンが参加し、営業と販促が頑張れば新人ですらイニシャルで1万枚くらいは注文が来た。

そして業界に金だけはあった、そんな時代。

当時、下北沢はミュージシャンという宝の山が集う不夜城であり、業界人誰もが目指す「ゴールドシティ」であったのだ。

奇しくも僕はその真っただ中に入り込み、何の疑問もなく生活していた。

ある日、ちょっとRECのお手伝いをしていた地元下北の業界の先輩から、とある事務所がデビューしたばかりの新人のスタッフを捜しているけどお前やるか?と聞かれた。

大学も放校状態だった僕は二つ返事で「やります」と答えた。

その方に連れられ、青山の事務所に行き、そこの社長からお茶を出してくれた綺麗な女性を紹介された。

「ああ、この子がこないだデビューしたんだ、名前は竹内まりや」

そこから21才の高卒の僕に、メジャーレコード会社と関わる音楽業界のマネジメント仕事が与えられたのだった。

この稿終わり。

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