『羽山くんとわたしのはなし。』第4話『二日酔いの朝に』
ある日目が覚めると、そこは寝室らしき部屋だった。
私が今まで眠っていたベッドとシンプルな黒いテーブル、こじんまりしたクローゼットが有るくらいのシンプルな部屋。
今まで一度も来たことのない、少なくとも記憶にはない部屋だった。
(え?何?どこ?)
慌てて起き上がると、こめかみにずきり、と刺すような痛みが走る。
(うわ、二日酔い?なんで?)
私はこめかみを指で揉みながらベッドの縁まで身体をずらし、ベッドに腰掛けるように座ると、改めて自分の身体を確認する。
(って、このパジャマ男物じゃない。誰の?ってか私やっちゃったの?)
私は湧き上がる恥ずかしさと情けなさでいっぱいになり、思わず手で顔をおおう。
(――やっちゃったんだなぁ、また)
飲み過ぎた。
で、記憶をなくした。
いくら可愛がっていた後輩の送別会だったからといって、無礼講にも程があるだろう。
(羽山くんに言われたのになぁ。気をつけて、って)
『楽しんでくるのは良いんですけど、ハメはずさないでくださいね。あと、浮気もダメです』
昨日の夕方、ウキウキしていた私に彼が苦笑い混じりに言っていた言葉が脳裏をよぎる。
(ごめん、羽山くん。そんなつもりじゃなかったんだけど、やっちゃったみたい)
少なくとも、今私のいる部屋は彼の部屋ではない。
ましてや、私の部屋でもない。
ということは、見知らぬ男性の部屋だということになる。
(キッチンがない……ってことは、ある程度大きな部屋よね。あそこに居たメンバーはみんな若い独身のコばかりで、そんなに大きな部屋を借りているような感じじゃなかったし)
私はズキズキと痛む頭を押さえつつ、なんとか昨夜のことを思い出そうとする。
(確か7時に始まって、飲み始めたら楽しくなってきて、……だめだ、誰かに携帯で電話をかけたことくらいしか記憶がない――って、)
「――あ、携帯!」
私が慌てて自分の携帯がないかと部屋を見回すと、先ほどのテーブルの上にハンドバックと共に並べて置かれているのを見つけた。
「――あった、良かったぁ」
私は倒れこむようにテーブルに近づくと、慌てて折りたたまれた携帯を開き、発信履歴を確認する――と。
「あれ?羽山くんだ、最後」
私は画面に表示された21時13分の発信履歴に『羽山 翼』と表示されているのを見つめる。彼の名前がこれほどまでに安心感を与えてくれるとは思っていなかった。
「そっか、そっかぁ。羽山くんに電話してたんだ、私」
私はほっと息を吐くと、携帯をたたもう……として、ふと違和感に気づいた。
(あれ?じゃあここはどこ?)
羽山くんに連絡して迎えに来てもらったのなら、今いるところは私の部屋か、少なくとも彼の部屋でなきゃいけないはず。
(もしかして私、電話するだけして一人で飲みに行ったとか?)
再び感じた嫌な予感に、私の頭からさあっと血が下がっていくのを感じる。
(ちょ、と、とにかく、羽山くんに電話)
私は慌てて携帯を持ち替え、彼の番号が選択されているのを確認して、通話ボタンを……。
その時、部屋のドアがノックされて、私は飛び上がらんばかりに身体をびくつかせ、妙な悲鳴を上げたのだ。
「うひゃっ?!は、はいっ!」
どんな男性が顔を出すのか。
知ってる人だったら、絶対やだ。
ごめん、羽山くん。
私は恐る恐るドアに目を向け、どうぞ、と声をかける。
私の声が聞こえたのか、ドアがかちゃり、と音を立てて少しだけ開き、
――そこからなぜか、50代くらいの女性が顔を出した。
「あら、ずいぶんと元気そうだけど、二日酔い大丈夫?」
女性はそう言ってコロコロと笑うと、すっと部屋の中に入ってくる。
愛嬌があるのに隙がないその女性の動きに、私は思わず感嘆の声を上げそうになった。
「あ、はい、ありがとうございます」
私は慌てて正座しお礼の言葉を告げる。
いや、別に正座は必要なかったのかも知れないけれど。
「あら、良いのよ。あなたのおかげであの二人も和解したみたいだし」
「あの……二人?」
私がオウム返しに尋ねると、女性は覚えてないわよねぇ、あれだけ酔っ払ってたら、と再びコロコロと笑う。
「ほんと、翼があなたを連れてきたのにも驚いたけど、そのあなたがいきなり二人に説教を始めるんだもの」
びっくりしたけど、スッキリしたわ、と笑いながら言う女性を見て、私はようやく昨夜のことを思い出した。
『羽山くんとわたしのはなし。』
第4話
『二日酔いの朝に』
『良いわよねぇ、寿退社ぁ』
送別会の帰り。
タクシーで迎えに来た羽山くんに、酔っ払った私は盛大に絡んでいた。
『結婚よ?けっこん。血の跡じゃないんだからねぇ?』
『はいはい、先輩。あんまりテンション上げてると寝ちゃいますよ』
ニコニコと笑ってはいるが、盛り上がっている私に併せるつもりはないらしい。
よし、じゃあ言ってやる。言ってやるんだ今日こそ。
シラフじゃとても言えないもの。
『あーあ、良いなぁ、結婚』
私は酔った勢いに任せ、前を向きながらわざと口を尖らせて言ってみる。
っていうか、むしろこれを言いたいがために電話して迎えに来てもらったといっても良いくらいだ。
『……結婚、ですか』
羽山くんはしかし、ふう、とため息をつくと、口を尖らせている私の頭をぽん、と軽く叩く。
『僕も先輩となら、って思うんですけどね』
『……なあにい?ですけどね?』
カチンと来た私が彼を見ると、しかし彼は暗い表情で窓の外を見ている。
『父親と冷戦状態なんです』
彼の話が突然変わった。
いつもなら理路整然としているはずの彼が突然脈絡もなく話を変えることなんて珍しかったので、私はとりあえず話を促す。
『昔から父親は仕事人間で、家のこと一切を母親にさせてたんです。母親だって仕事してたのに、ですよ』
彼の口調にどことなく怒り、というか不満のようなものがこめられている。
普段あまり感情を表に出さない彼がここまで言うということは、よっぽど酷かったのか、お父さん。
『で、まあ、親を見てて、結婚なんて良いもんじゃないのかな、って』
先輩とずっと一緒にいたいとは思ってるんですけどね、と苦笑いする彼を見て、私の胸の奥でくすぶっていた何かが一気に迫り上がってきた。
なんじゃ、そりゃ。
ふざけんな。
『……羽山くん』
私の声に、彼が何故かびくり、と身体を震わせる。
『はい、何ですか先輩』
『羽山くんの実家、遠いんだっけ?』
『え?いえ、都内ですけど』
私の突然の問いに、彼は狼狽えながらも答える。
『そう。じゃあ連れてって』
『え?え、でももう10時』
驚く彼の声を遮るように畳みかける私。
『良いから!連れて行きなさい!』
ここで仕事口調を使うのは卑怯かもしれない、などとは全く思わなかった。
『は、はい!……運転手さん、すみません……』
彼が了承して運転手さんにルート変更を指示しているうちに、私の意識が薄らいでいった。
※
正直に言うと、その後のことは断片的にしか思い出せない。
彼の家に着いて、ご両親が玄関に出てきて、彼が私を紹介して。
私が彼のお父さんと彼を客間に連れていき、何かを一生懸命にお説教した、ってくらい。
多分お説教の内容も、覚えてないけど予想はつく。
許せなかったのだ。
高校時代に両親を無くし、天涯孤独になった私からすれば、
生きている家族がすれ違っていることが、許せなかったのだ。
そう、私は、
やらかしてしまったのだ。
結婚したいと思っている彼のご両親に、あろうことか酔っ払った状態で怒鳴りこんで、説教までしてしまったわけだ。
穴があったら入りたい。
むしろ、このまま溶けてしまいたい。
ああもう。
※
「改めまして。翼の母親をしています、多江と申します」
先ほどの寝室。
呆然としている私の前で三つ指をついて頭を下げているのは、先ほどの女性である。
小柄で丸顔、目がクリンとしていて笑顔が可愛い女性だ。
「あ、あの、すみません、江城里香と申します。はや……いえ、つ、翼さんの、その、」
しどろもどろで答える私に、顔を上げた多江さんがにっこりと笑う。
「翼から聞いてますよ。いつも翼がお世話になってます」
「え、いえ、こちらこそいつもお世話されてる方で」
「おまけに、昨夜は翼とうちの旦那の関係まで修復してくれたでしょ。感謝してもし足りないくらいよ」
にっこりと笑ったまま話し続ける多江さんに、私は頭が上がらない。
「い、いえ、すみません。なんだかお酒の勢いで余計なことをしてしまったようで」
私の返答に多江さんがコロコロと笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「とりあえず朝食の用意は出来てますから、一緒にいただきません?」
正直二日酔いのげんなりした胃袋で食欲もほとんどなかったのだが、ここで断ったら女がすたる。
私はしっかりとうなずくと、ゆっくりと立ち上がった。
※
さっきも書いたけど、私は現在、天涯孤独の身だ。
もちろん探せば親族の一人や二人はいるかもしれないけど、両親は最後まで彼らのことを話そうとしなくて、だから正直探す気になれなくて今に至っている。
だから、というわけでもないのだけど、
私はいわゆる『親戚づきあい』というものの経験が全くなくて。
だから、今こうやって羽山くんのお実家のダイニングで、彼と隣り合って座りながら、相向かいに座る羽山くんのご両親と朝食を食べる、という状況に、心の底からどうして良いのか分からなくなっている。
「ごめんなさいね、二日酔いだからもっと軽いものを、って思ったんだけど、わが家は毎朝パンとハムエッグじゃないとお父さんがね」
申し訳無さそうに言う多江さんに、私は慌ててパタパタと両手を振る。
「いやもうぜんっぜん大丈夫ですってかむしろ大好物です!」
「あらそうなの?良かったわぁ」
そう言って笑う多江さんに、横から茶化したような羽山くんの声が重なる。
「うん、チーフなら、ちょっと肉成分が足りないかもね」
「いや待って、それはヘビーすぎるわよ」
「そうです?だってほら、大阪に出張したとき――」
「いやあれはちが」
「確かにバイキング形式で、僕が悪戯心から皿を山盛りにして持って行きましたけど、それ、普通に平らげてましたよね」
「いや、それはほら、羽山くんがせっかく――」
寝ぼけてる私のためにしてくれたんだもの、と言いかけ、慌てて言葉を呑み込んだのと、羽山くんのお父さんが立ち上がるのがほぼ同時だった。
「ごちそうさま」
「あら、もう?」
不思議そうに尋ねた多江さんに、「床の間に居るから」とだけ返してダイニングから出て行くお父さんを見て、私の脳裏をいやな予感がかすめた。
何かとんでもないミスをしでかしたんじゃないか、私。
「――すみません」
思わず口をついて出た言葉に、多江さんがきょとん、とした顔で首を傾げる。
「え?――ああ、あの人のこと?」
「はい。もしかしたら御迷惑だったんじゃ」
そう言いかけた私に、多江さんは笑ってないない、と否定する。
「そんなことないわよ。あの人ね、嬉しくなると落ち着かなくなるの。多分今も床の間で――」
「ニヤニヤしながら何か書いてそうだよね」
「え、書くって、何を?」
続けた羽山くんの言ってる事が良く解らなくて思わず問い返すと、羽山くんはええ、と苦笑いしながらうなずく。
「親父は書道が趣味で、自分の気持ちを書いて見せてくるんです」
「気持ちを?」
重ねて尋ねた私に、多江さんがそうなのよお、とコロコロ笑う。
「『腹減った』とか『ビール飲みたい』とか力強いタッチで書いて見せてくるのよ?いくら口下手だからって、普通そのくらいなら口で伝えるのにねぇ」
「前、出勤するときにさ、わざわざ玄関先で『行ってくる』って書いた半紙を見せてきたよね」
「ああ、アレね。スーツ姿で気むずかしい顔しながらあんなもの出してくるんだもん。ドアが閉まってから腹抱えて笑ったわよ」
お父さんの話題で盛り上がってる二人に、私はどういう表情をして良いのか解らず、……っていうか何をどうツッコんで良いのか解らなくて、とりあえず曖昧に笑ってみる。
そんな私に気づいたのか、多江さんが笑いながらごめんなさいね、と返してきた。
「あ、いえ、その、……仕事人間ってそういうユーモアが大切なのかな、って――」
「いりません」
「必要ないわよ」
「うわ、あっさり」
私は即座に否定した二人にそう返すと、二人と一緒に噴き出した。
※
三人で朝食を食べ終えたあと、私は多江さんのお誘いもあって、ショッピングに出かけることになった。
親子ほどの年の離れた女性とショッピングに行く、などという経験は本当に久しぶりで、だからとにかく多江さんに恥をかかせないようにとお風呂場を借りて汗とかアルコールを洗い流し、いつもよりもあっさりとした化粧をしてリビングに戻ってくると、
――なぜか羽山くんが、リビングのソファで肩を震わせていた。
「どしたの?」
もしかして泣いてるんじゃ、と心配になった私が声をかける。
「何かあった?もしかして私のせい――」
続けた私の言葉は、しかしこちらに振り向いた彼の表情を見てぴたっ、と止まる。
笑っていたのだ。
それも、今まで見たことがないくらい、満面の笑みで。
「は、はやま――くん?」
「ち、チーフ。じゅ、じゅんびでき、ましプププッ」
よっぽど可笑しいことがあったのか、声をかけた私に普通に返そうとしつつも、思い出し笑いでぜんぜん普通に喋れない羽山くん。
こんな彼、初めて見た。
「どど、どうしたのいったい?」
私がびっくりして問いかけると、彼はクスクス笑いながら、ソファの前のテーブルに置かれた一枚の紙を私に差し出した。
どうやら半紙のようだけ――ど――
「――っっ?!」
差し出されたそれを見て、私の体中の血とか熱とかが一気に頭のてっぺんまで駆け上がっていく。
「親父から、贈る言葉、だ、そうで」
笑いながらそれだけなんとか言った彼がつまみ上げたその紙。
そこに書かれていたのは、こんな言葉だった。
(書 提供:佐伯 有さん)
――決めた。
私は目の前でゆらゆらと揺れるその半紙を見つめながら、心に誓う。
もう二度と、飲み過ぎないと。
(つづく)
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