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【潜在表明】は【春日影】との決別の歌。他のどの曲よりも燈の心の叫びがそよの心を深く深く抉る

僕であろうとすることが どうしてこんなに痛いの?

潜在表明/Mygo!!!!!

誰が本当の自分を理解できるのだろうか。本当の自分とはどこにあるのだろう。光だけが救いになるのだろうか。
太陽の光は救いの象徴でありながら時として残酷なまでに強すぎる光は人を焼く。

幼い頃から周囲の顔色を伺い、周りの色に自分を染めることで生きていた彼女の本当の色は何色なのだろうか。

【潜在表明】はMygo!!!!!の曲だ。

以前公式のキャンペーンで配布されたしおりにはメンバー事に曲の歌詞が記載されていた。
俺の魂であるそよさんのしおりに載っていたのが【潜在表明】なのだ。

俺の魂については以下に全てを叩き込んであるのでここでは割愛する。

彼女のことを理解したいと私は常々思っている。だからまずは考える必要があった。
なぜ長崎そよに潜在表明が当てられているのか”を。バンドリほど力あるコンテンツで無造作に、適当に曲とキャラが当てられることなど絶対にない。そこには必ず理由が存在する。

そうして彼女に寄り添い続けて幾星霜、結論に辿り着いた。潜在表明はそよの心情を表した歌詞ではない、ただ燈の言葉が他のどの曲よりもクリティカルにぶっ刺さる。
つまり最もそよに深く刺さり心を抉る曲だ。だからそよは【潜在表明】なのだ。迷子でも進み続けると決めたあの日から彼女は【潜在表明】をしなければならない。その話をこれよりしていく。

解釈のレベルだが、基本的にはアニメで明かされた情報を基に構築していく。つまり大前提としては「歌詞は燈の心の叫びである」ということだ。その上で、燈が意図せず書いた上でそよにぶっ刺さりまくっているという話を展開していく。


「影」は居場所

迷子の曲は程度の差こそあれど、ある程度他のメンバーにも当てはまるものとなっている。【潜在表明】においても例外はない。
ではその上で何が決定的な違いになるのか。
答えは「2面性」にある。そう、「光と影」「表と裏」だ。迷子メンバーで最も裏表激しく2面性を強調されている存在はいうまでもなくそよだ。
この光と影の2面性の強調にこそ【潜在表明】の魅力と長崎そよという生物の愛おしさが詰まっている。

誰もが「光」に救われるわけではないということだ。
光が当たる、他の誰かに見られる状態であるということが救いには"ならない"という点が【潜在表明】長崎そよ概念の真髄である。
他の誰か、光で当たっている状態であるとそよは自分自身ではいられない。光が強ければ強いほどあぶり出される影もよりくっきりと映る。

幼い頃から母の顔色を伺い、才色兼備な娘であり続けたように。学校での誰に対しても優しく真面目な優等生であったような。そんな常に周囲に対して常に良い側面。

そんな表向きの姿ではない、素の「長崎そよ」を形容する言葉こそ【孤独の形】である。

太陽にあぶり出される 僕の孤独のカタチが
後ずさりするように 影になった

潜在表明/Mygo!!!!!

他の誰にも見せられない、他人が望む自分ではない本当の自分。それが【太陽にあぶり出される】という表現をされている。
そよにとって素の自分は隠すものであり、正しく影である。だが影は光に必ず付き纏うものだ。
だからその見られたくない影をくっきりと映し出してくる太陽に対してこのような表現が成されている。

だから影、光に当てられない部分にこそ本当の自分が宿る。
「表裏」という要素に関して基本的にそよ以外の迷子メンバーはあまり強く当てはまるものを持っていない。みんなそんな使い分けができるほど器用に生きられていないからだ。
前述とアニメ本編での通り、そよだけが強烈な2面性を有している。だからこそ【潜在表明】の歌詞が深く深く刺さってくるわけだ。

この影にいる時にこそ心地良い、という部分に対する描写で特筆すべきは「モグラたたき」に対する解釈だ。

逃げるように駆け込んだゲームセンター
ドクン ドクン モグラを叩く音が響いていた
振り下ろされるたび僕に痛みが走るのは何故だ
叩かれては沈んでいく どこから顔をだしてもうまく避けられない
その姿はまるで僕だ

潜在表明/Mygo!!!!!

もぐらたたきというゲーム、複数のもぐらが穴から顔を出すから片っ端から叩いていくあれだ。
モグラからしたら光の当たる場所へ出るたびに叩かれる恐怖を孕んでいるゲーム。頭を出さなければ叩かれることはない、だがそんなことはできない。そうしなければならないから。

燈は出ては叩かれて沈むモグラに視点を合わせ、自分と重ねている。叩かれると分かっているのに頭を出して叩かれる、そんな要領良く生きられない姿に自分の面影を見ている。
叩かれないようにするのではない、うまく避ける方法を探して足掻いてそれでも沈んでいく様に燈の不器用な生き方が垣間見える。

本当は影の中にいたいのに周りに合わせて同じように光へ顔を出さなければ生きていけないそよも同じだ。彼女の場合はその状況に境遇が当てはまる。
傷付く可能性のある光へ顔を出したくはないが、周りに合わせてそうしなければならない。そうして叩かれずにそのまま戻り、また光へ顔を出す無傷のモグラにこそ彼女は相応しい。
燈とそよ、2人の器用さと不器用さの対比としてモグラたたきが使用されているのは非常に巧妙で合っている。

心地良い「光」との決別

ここからが真の核心。【潜在表明】の何がそよの心を抉るのか、という話になる。

【潜在表明】において影が居場所であり光はそれを表へあぶり出すものと表現されている。
これに対して対比しなればならないものがある。そよにとって最も居心地の良かった居場所。同じ「影」であるがその意味合いは全く違う。

そう、美しいあの”春の日”のこと。即ち【春日影】の歌詞だ。

あの日泣けなかった僕を
光は やさしく連れ立つよ

春日影/MyGO!!!!!

光が連れ出してくれる、という表現が非常に特徴的だ。あくまで影は「今いる場所」であり「いるべき場所」ではない。だから「光」がそこから連れ出してくれるという表現。
これは燈にとっての希望であり、そよにとっても希望である。本当の自分でいても良い、あるいは今の自分が本当の自分だと肯定できる居場所となってくれる温かな光当たる場所。

いつの日か、緩やかに素の自分を形作れたかもしれない場所。素の自分を出せる、ではない。その瞬間の自分がありのままの自分となる、という意味合いだ。
そういった意味でそよにとって【春日影】と【CRYCHIC】は本当の居場所となる可能性を秘めていた。
続けていてどうなったかは分からない、その可能性を追求される前にCRYCHICはなくなってしまったから。可能性が残っているから、だからこそあり得た希望として拠り所として縋り付くことができる。
【春日影】はCRYCHICの曲である、ということにそよが拘り続けた理由の一つがここにある。

あくまでも迷子はCRYCHIC復活への手段に過ぎない。だからここは居場所に過ぎない、ここでのそよは素ではなかった。アニメ序盤から中盤にかけての光側、素ではないそよが全面に出ている。

あるいは光を遮ってくれるのが自分の手ではなくなるかもしれない、もっと言えば光を遮る必要すらない居場所にすらなり得た可能性がある。
だがそうはならなかった。手に入りそうで入らなかったものにこそ人は執着する。優しく柔らかい光に導かれる世界こそ手に入らなかった夢。

光が連れたってくれる】と【太陽にあぶり出される】という光の受け取りかたの対比。【遮ったこの腕だけが僕を庇う】という孤独と【君の手はどうしてこんなに温かいのだろう】という繋がりの対比。
同じものを全く違う視点から描いている。どこまでも【春日影】を否定するような言葉が並んでいる。それは【春日影】がCRYCHICとしてのあり得たかもしれない未来が温かな希望になっているからだ。

迷子として進む道は、辛く苦しいが本当の自分と向き合うための道。誰かの為ではない、自分の為のバンド。だからあの美しかった日々を、美しいままでいさせなければならない。
””迷子でも進み続ける””と決めたあの時から「光が連れ出してくれる」などと甘ったれた美しい夢は否定し続けなければならない。美しい思い出の中に未来はない。だからこんなにも【潜在表明】はそよの心を抉る歌詞になっている。

光に連れ出してもらわなくても進み続ける。影を居場所の一つとして否定しない。【潜在表明】とは【春日影】との対比、決別の歌でもあるのだから。

ああそうだ ずっと気づけずにいたんだ
僕へと打ち付けられた 憫笑 冷評
倒れないようにするのが精一杯で
その一つ一つが痛くて怖いのに 流せなかった涙のことを

潜在表明/Mygo!!!!!

あの日泣けなかった僕を
光はやさしく連れ立つよ

春日影/MyGO!!!!!

この苛烈極まる対比が見えるか。「泣けなかった」ということを”痛みを認知できなかった”と解釈している。
燈にとっても【春日影】を書いた時のメンタルはよほど安定していたのだと見える。なぜならばそんな痛みを忘れるほどにやさしい光にスポットを当てているのだから。
当たり前にやってきたから、それが当然だったから痛みを伴うものだと気付けなかった。

どれだけあの時間が美しく温かいものだったかという描写の対比になっている、だが真に痛みと自分自身と向き合えているのは確実に【潜在表明】の時だ。
そこに甘えはない。縋れる救いはない。だから自分の足で決めて進むしかない、進む方向がわからなくても、だ。

燈とそよの対比

燈の歌詞は、心の叫びはそよの心の叫びでもある。
そんな中でも決定的に違う部分、そよにはない眩しさを持つ燈が出ている部分が存在する。

誰かが望む理想(いろ)には 僕は変われない

潜在表明/Mygo!!!!!

ここだ、この部分にそよの苦しみの全てが込められている。
あるいはこんなにも不器用に生きられていたらどれだけ楽だっただろうか。
だから最後だけ。誰かが望むいろに変われない燈と変わり続けることで生きてきたそよの対比が詰まっている。

ここに関しては全く違う。完全なる燈の言葉だ、だからそよのメンタルを削る。
ずっと共通しているような、似ているような部分が出てきて最後に決定的な違いをこのように見せてくる。この決定的な違いだけが長崎そよの全て。

燈からしたら誰かが望む理想に自分を変えながらやっていくことが上手な生き方、人間らしさである。それを周りで最もうまくこなしているのがそよだ。
だがアニメ本編においても素の自分を出すようになってからは変化をしてきている。周囲に合わせるだけではない、良くも悪くも自我を出している。

だからこの部分は対比であり共通点でもある。この矛盾した性質こそ彼女の魅力。やろうと思えばできるがしない、という点が重要なのだ。
今まで通り、いくらでも自分を周囲の望む理想に変えて生きることはできる。だがもうそれが全てではなくなっている。この変化と成長を一心に感じられる非常に美しい部分となっている。

声に手を伸ばして

かように【潜在表明】は燈の歌詞の中でも最高級にそよの心を摘む歌詞である。だからこそ染み渡る。
【春日影】と対比するような真逆の歌詞、光が連れていってくれるなどといった甘えたシンデレラ思考を真っ向から打ち砕く苛烈さは実に迷子らしくて素晴らしい。

改めてになるがここで伝えたかったことは一つ、【潜在表明】は【春日影】と対象的な存在の曲であるということ
そして【春日影】と対象的なこの曲がそよの在り方を最も現しているという皮肉。だからこそ、だからこそだ。

僕であろうとすることが
どうしてこんなに痛いの?

潜在表明/Mygo!!!!!

この歌詞が染み渡るわけだ。ありのままの自分を受け入れてもらえたからこそ、自分らしくいていい居場所ができたからこそ本当の痛みが生まれる。
今までの自分を守る為のベールを脱いだことで生まれる痛み、ありのままの自分で居続けることだけでどうしてこんなにも痛みが生まれるのだろうか。この不器用すぎる生き方こそ迷子の真骨頂である。

なんだかんだで燈は生きていくだけで痛みを伴う人種だからどう痛くとも進むだろう。だがそよは違う。痛くならないような生き方で自分を周囲から守って生きてきたから。いつか光が優しく連れたってくれるあの日々を愛おしく思っている。
だらこそ迷子でも進むと決め、痛みに立ち向かう様にカタルシスが生まれる。その決意表明の形、生き方の名称こそが【潜在表明】なのだ。

人より器用で自分を守ることが上手かったから痛みに対してより敏感になってしまうその強くて脆い長崎そよという人間の在り方に対して愛おしさだけが無限に溢れてくる。
【潜在表明】は迷うことに迷わないという生き方へのアンサーでもある。この一曲に彼女の魅力のなんたるかが詰まっているといっても過言ではない。

これで土壌は整った。あとはどれだけどんな燃料がくるか。戦いが始まる時は近い。
2025年、「BanG Dream! Ave Mujica」の始まりによって今よりもっとどれだけより深くそよへ拗らせられることができるか、それが命を繋げている。総集編映画での追加燃料にも期待したい。

まだまだ俺の好きな""理想""のそよさんが見ていられそうで嬉しい限りだ。


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