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デュセック作曲。「6つのソナチネ・第4番」イ長調 Op.20-4

こんにちは。


ピアノ講師、メンタルコーチとして活動しています。
「One Heart」です。


さて、今日はピアノの話です。


デュセック作曲の「6つのソナチネ 作品20-4」をYouTube動画にアップロードしました。



全音楽譜出版「ソナチネアルバム第2巻」に収録されている曲。

比較的難易度は低めの曲になっています。


こちらの楽曲分析は、今日の記事の下の方に書いています。
目次を設定しました。
今回は、楽譜を作成して譜例として載せておりますので、楽曲分析の部分から有料noteとさせていただいています。



このnoteの本題に入る前に、ソナチネアルバムについてのマガジンを作成しました。フォローしてくださるとうれしいです。


下のnoteは、その中でよく読まれている記事になります。
ご興味ありましたら、最後まで無料で読めますので読んでみてくださいませ。


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では分析に入る前に、「ソナチネとは?」というお話からしておきたいと思います。


✧˙⁎⋆「ソナチネとは?」
下のリンクは、私のHP「音楽専門ブログ”Bella musica”」のページになります。
ソナチネについて書いていますので、お時間ありましたら読んでいただけるとうれしいです。


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デュセック作曲
「ソナチネ Op.20-4」


まずは、作曲者のデュセックから。


デュセックは、1760年2月12日、現在のチェコ(当時:オーストリア大公国)のチャースラフという街で生まれました。


その後転々と住まいを変え、1812年にパリ郊外で亡くなった作曲家です。


彼は地元で父から音楽教育を受け、その後プラハで哲学や神学を学び、その後オランダやベルギーへ渡る。


さらにドイツのハンブルクへ行き、大芸術家でもあるエマヌエル・バッハのもとへ行ったとされています。


その後、パリのベルサイユ宮殿をおとずれ、マリーアントワネットの前で演奏したという。


フランス革命が起こると宮廷や貴族とのつながりを持っていたことから処刑されるのを恐れてロンドンへ逃亡。


晩年はドイツに渡りましたが、大きな成功もできずに一旦ふるさとのボヘミアへ戻ります。
そこでプルシャの皇太子の宮廷に迎えられ、皇太子に仕えることになります。しかし、後見人でもあったその皇太子は、ナポレオン戦争で亡くなってしまいます。
その死を慎んで書かれたピアノソナタ作品61は彼の代表作のひとつです。


その後、別の皇太子に仕えてから再びパリに戻ります。
40代後半からは演奏活動はせず、作曲と出版に専念。


1812年パリ郊外で亡くなりました。
52歳の生涯でした。


ヨーロッパ各地で音楽教師、作曲家、オルガニスト、ピアニストとして活躍し、旅周りの演奏家として各地で演奏活動をしていたとのこと。
見た目もよく、いわゆるイケメンだったようで、ナルシストな一面も持っていたようです。


子どもの頃から音楽の才能に長けていて、その才能を認められ、各地の宮廷でオルガニストとして活躍しました。


彼は現代的なソナタの創始者とされていて、新しい型をつくり、それまで使われてきた和声の定型、形式主義的な手法を断ち切った最初の人であるといわれています。


いろいろな場所を転々とし、恋多き人だったようで、その人生も波乱万丈だったのでしょうね。


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さて、作品に話をうつしていきましょう。


この曲は、2楽章で構成されています。
第1楽章: イ長調 ソナタ形式。
第2楽章: イ長調 複合三部形式。


音楽の形式については、こちら☟
わたしの音楽専門HP『Bella Musica』に書いています。


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