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当たり前のことが一番大切で、難しい。今しか書けないこともある。だからこそ書き留めたいのです。 自分の記事まとめ▷マガジン「みう的まとめ」。

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    自身に向き合えた記事のまとめ。

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    自分の記事を紹介していただいた、皆さんの記事をまとめています。嬉しい限りです。ありがとうございます。

最近の記事

分かりたい、と手を伸ばすまで

自律。 それは昨年1年間の目標であり、これからも立ち戻り続けるであろう原点だ。 自立を目指して自律を心がけていたけれど、思いがけず得た最大の利益は、結局のところ「人と一緒に何かをすること」、そして「人を想うこと」の尊さという、なんとも基本的なものだった。 ◇ 自律を心がけていた期間は、なんだか生き生きしていた。 自分のしたいことに向かって何かしら考えて行動していれば、そのうちの7割は叶ったように思う。 些細なことから、まさか叶うと思っていなかったことまで。 面白いよ

    • 焦げ茶の渦

      某日、真っ黒なスーツに身を包んで、動く歩道の上で立ち止まって遠くを眺めていた。 ウイルスだろうがなんだろうが関係なく、私は就職活動やその準備を着々と進めねばならない大学生の一人である。 それなりに実績を作ってきたようなそうでもないような、でも自分のことは知りすぎてしまったような、逆に全然知らないような、そんな大学生の一人でもある。 ◇ 何度か訪れたことのある目的地なので道に迷いはしなかったが、やはりリクルートスーツでしか訪れたことのない場所は何度訪れても背筋が伸びる。

      • 格好良くて、イタくて、ダサくて。

        ただ漠然とした不安を前にしたときに足が竦んでしまう性分である。 そういうわけで、10代のほとんどにおいて私の足は竦みっぱなしだった。 輝いて見える人に格好良いという感情を抱いた。それでいて自分がそれになり切ることはできないとどこかで決め付けていたので、「格好が良いけど、別に目指そうとは思わないかな」という絶妙な嫌味を幾度も散らかしていた。 弱さや寂しさを人に悟られたくなかったのだろう。思春期特有のそれである。 ◇ 大学生になって1年が経った頃からようやく自分の足で立てる

        • 名前をつけて、

          それは多くの現代人にとって「保存」の枕詞だろう。 けれどこの静かな時間には、それは「保存」ではなく「破棄」を導く言葉に聞こえて仕方ない。 ◇ 私たちが誰かや何かに名前をつけるのは、それが大事だからではないだろうか。 私たちが誰かとの関係や自分以外の誰かにとっての"ガラクタ"を大事にするのは、それが愛おしいからではないだろうか。 名前をつけて保存しておけば、またいつでも同じ場所に戻ってくることができる。 爽やかな青春、甘酸っぱい恋愛、胸に杭を打つような辛い記憶。 忘

        分かりたい、と手を伸ばすまで

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        • みう的まとめ
          30本
        • 「みう」を紹介していただいた記事
          9本

        記事

          「忘れてはいけないこと」を忘れる。

          忘れてはいけないこと以外、すぐに忘れる質だ。 今日書きたい「忘れてはいけないこと」というのは主に自分の信条やそれに結びついている諸々の出来事で、半分自分に染みついているようなもののことだ。 それ以外の「忘れても差し支えのないこと」はとことん忘れる。 そうでもなければ私はうまくやっていけない人間だ。 たくさんの点を納めておけるほどのキャパシティがない。 その代わり一つの点だけ納めておいて、残りは紐で繋いで箱の外に垂らしている。 これなら思い返すことができる。一つの点をつ

          「忘れてはいけないこと」を忘れる。

          "終わり"の、その隣。

          お久しぶりの方も、初めましての方も、こんにちは。 ご無沙汰しております、みうです。 ◇ 案外早くまた文字を綴っているなあ、なんて(ええ、思っています)。 その当時の気持ちは揺らいでいたはずなのに…いや、揺らいでいたからこそなのかもしれない。今も正直ゆらゆらしている。 次いつ書けるかも分からないし…Command+A+…いやいや。 画面の真ん中の、青くなったり白くなったりの繰り返しを、さして変わり映えのない机の上でひとり見つめている。 けれどやはり、私が"最後"に込

          "終わり"の、その隣。

          noteで過ごした1年

          昨晩ぶりの方も、初めましての方も、それ以外の方も、こんにちは。 目に留めていただきありがとうございます、みうです。 私事ですが、昨日で毎日投稿365日目を迎えました。 何かを続けること、「毎日ちょっとずつ」が大の苦手だった私が、まさかの。 皆さまの支えあってのことです、本当にありがとうございます。 …ということで、今日は「noteを365日続けるとどうなる?」というテーマで、これまでのことを振り返っていこうと思います。 ◇ 1. 自分の目指す姿が少しずつはっきり

          noteで過ごした1年

          描いた大人像

          誰に干渉されても惑わず、揺らがず、しかし単なる意固地とは違う、ただ自分の人生に真摯に向き合う、そんな大人になりたいと思った。信念をもつだけではなく、それを貫こうとする姿勢に憧れた。 誰を見てそう思ったのか、全く定かではないが。 それにひきかえ、憧れた当時の自分とくれば、つまらないことで悩み、意地を張って衝突し、心の中で刺々しい独り言を呟き、考え事は空転ばかりする。その度にいつも「大人になりたい」という気持ちをどこかで抱いていた。 ◇ 社会的にも大人になったこの頃、まあ

          描いた大人像

          安心できる存在とは

          (※本文は普段と同様、1,500字程度です。) 純粋な、ただそれだけのシンプルな"安心"。余計なことなど何も考えなくていいという安らぎを、ただ一心に渇望していたのではないだろうか。 人の言うことがただ信じられないだけかと思っていたが、今私にとって本当に尊く見えるのは、信頼よりも安心だと気がついた数ヶ月前。 信頼と安心はとても似ているが、安心の方が、より感覚的で無条件なもののように感じられる。 信頼には何かしらの理由や根拠が必要だけれど、言葉では説明のつかない安心がきっと

          安心できる存在とは

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          青く広く、どこまでも

          青く広く、どこまでも

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          先入観と生きていく

          周囲の物事や人物に対して先入観をもってかかることはよくないことだと言われている。 先入観というのはあればあるほど楽にものを見ることができる。疑うだけの体力を省いてくれる。ときには見ることすらしなくていいと思わせてくれる。 それだけ聞けば疲れた心には薬のように聞こえるけれど、長い目で落ち着いて見てみれば、それは後戻りできない、破壊的な、中毒性のあるものだ。 目先の利益にとらわれてしまうのも頭ごなしに否定する人になるのも嫌なので、私は大人しく中毒から抜け出そうとしている。

          先入観と生きていく

          我慢強さの裏返し

          「我慢強いね」、「責任感が強いのはいいことだね」、と昔から言葉をかけられてきた。 でもそれは裏を返せば、人に自分の意見や不満を訴えるのが苦手であり続けた結果でもあるのかもしれない。誰かの逆鱗に触れることが怖くてNOと言えない、ちょっとの引っ込み思案が積もった結果なのかもしれない。 普段は「粘り強い」「責任感がある」という言葉で長所として片付けている性格を、少し捉え直してみようと思う。(長所の文字を塗りつぶして短所にするつもりはない) ◇ 相も変わらず私の中には「自分で

          我慢強さの裏返し

          人に頼るのがものすごく苦手であることに気がついた。良く言えば責任感、悪く言えば抱えがち。 この気づきからいろんな方向に思考が分散してしまって収集がつかなくなりました。「タイトル未設定」ばっかり溜まるけれど、これはこれで、まあ。 2日連続こんな感じですが元気でやってます。

          人に頼るのがものすごく苦手であることに気がついた。良く言えば責任感、悪く言えば抱えがち。 この気づきからいろんな方向に思考が分散してしまって収集がつかなくなりました。「タイトル未設定」ばっかり溜まるけれど、これはこれで、まあ。 2日連続こんな感じですが元気でやってます。

          書きたいと思えるのは考えが散らばっている時。きれいにまとまっていると書く気があまり起きない。それで私はぼんやりと毎日書いている。よく分からないままでも言葉にするのも大事。 このことと今日のおやすみは関係ありません。今日はどっぷり学業に費やして疲れたのでおやすみです。また明日。

          書きたいと思えるのは考えが散らばっている時。きれいにまとまっていると書く気があまり起きない。それで私はぼんやりと毎日書いている。よく分からないままでも言葉にするのも大事。 このことと今日のおやすみは関係ありません。今日はどっぷり学業に費やして疲れたのでおやすみです。また明日。

          幸せを願うとき、不幸に思いを馳せている

          私たちは性格も価値観も違えば歩き方も違うけれど、みんな心のどこかでは幸せに生きていたいと思っているし、悲しいことより楽しいことの方が多い方がいいと思っているし、自分が亡くなったあとには、できれば虚無以外の何かを遺したいと思っている。そんなふうに思う。 ハッピーエンドを、望んでいる。 けれど、ハッピーエンドが保証された人生などない。ましてその"エンド"までの道のりがどれほど多難であるかなど、直面するまで分からない。 どうしようもない絶望に陥り、自分の指先すらぼやけて見えな

          幸せを願うとき、不幸に思いを馳せている

          心の居場所のつくり方

          「心の居場所がない」、そんな事態に直面したことがこれまでに何度かある。 集団の中で関わるうちに自分が異質なもののように思えて、私の居る所はここではないと感じ、無言で消えるように去っていったり、喧嘩をして去っていったり。 それは本当に些細なことで、たかだかクラスの中での"仲良しグループ"とか、ひとりとのすれ違いとか、そういう次元の体験談に過ぎない。けれど本質的に考えると、周りに馴染みきれないことに自分の限界を感じて集団からログアウトしてしまうのは将来的にも起こりうる。 比

          心の居場所のつくり方