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遠い高校時代のこと #3

こんにちは。今日が終わったらまた平日がやってくるのがにわかに信じがたいです、みうです。
久しぶりに土日共にちゃんとした時間に起きました。珍しい珍しい…(え?これを投稿したら二度寝しようとか考えてるんじゃないかって?まさかねえ、うん)。

今回も引き続き、高校時代のことについてお話しします。

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合宿でのこと

前回の「中立の苦しみ」はかなり経験値として私の心の中に残っているのですが、今回書く話題は未だにあまりいいものとして残っていません。

私の代には決定的に点数を決められるようなプレーヤー(いわゆるエース)がおらず、それでも一番の候補になっていたのは私でした。
先輩が引退するまでは、顧問の配慮もあってかあまり打ち込みの練習や攻撃に特化した練習はしてきませんでした。

先輩が引退して間も無く夏休みが始まり、4泊5日の合宿が始まります。
合宿は長野の山の中でおこなわれるもので、ただひたすら、朝は山登り、午前中と午後に練習をして夜練をしての繰り返しです。

私は新しい顧問と話し合いをする中で「自分の殻を破ることができていない」ということを連日指摘されていたので、合宿でこそ変わろうと決意し、合宿当日もそのようにしていました。

しかし、合宿2日目の午後、私は激しい頭痛を感じるようになりました。
最初は熱中症にでもなったのかと思っていましたが、ここで練習から脱してしまえば自分を変える好機を失ってしまう…そう思って練習を続けました。

翌朝、私は熱を出しました。

流石に体温計に数字として表れてしまった以上は休まざるを得ず、チームメイトが必死に練習しているその一方でベッドで寝ていました。
建物の1階が部屋、2階が体育館だったので、練習の足音や声が聞こえる中で、私は1人明るい部屋で横たわっていました。

インフルエンザにもかかったことのある人間ですが、それなんて比にならないほどの頭痛と熱っぽさでした。自然と「うーん…」と苦しむ声が上がります。
昼間に再度熱を測ってみると、39度3分。
ああ、これはダメかもしれないと思ったのを覚えています。
その夜、顧問の運転で山の麓まで降り、病院にかかりました。
検査を受けても詳しくはわからず、東京に戻って再受診をするように告げられました。

そういう経緯で、合宿4日目の午前中、私は両親が迎えにきた車に乗せられて東京に戻りました。

東京に戻ってもしばらく病院を何軒か回りました。極端な暑さに体力もなくなっていきます。喉の痛みも出て、唾を飲み込むことすらままならない日が数日続きました。

合宿を終えたチームがまた高校の体育館で練習を始めた8月上旬、熱や痛みなどの病状も収まっていたので、私も練習に1、2回参加したかと思うのですが、その時の練習の内容やチームメイトの反応は一切覚えていません。

そして間も無く、私は大学病院にかかり、診断を下されました。

運動をしたら最悪の場合死にも至るから、大人しく寝て、回復を待つようにとのことでした。

孤独な高2の夏休み

そこから空虚な8月が始まります。

およそ20日間、毎日寝て食べての繰り返しです。
10時くらいに起きて、食事をとって、テレビを見てゆっくりして、なんとなく眠くなってきたら階上へ行ってベッドで眠り、夕食を食べてまた寝る。

やがてあまりにも眠るせいで夜も眠れなくなり、そして昼も眠りが浅くなり、昼夜逆転というよりは時間というものが単なる空の明るさの変化にすぎなくなりました。

幸いリオオリンピックの開催期間だったので、テレビを見るのが退屈すぎるというわけではありませんでしたが、それでも卓球の水谷選手が歓喜のあまり床にひっくり返ってガッツポーズをした姿は10回も見れば飽きてしまいました。

夏休みの課題には少しずつ取り組みつつ、特にすることもなく、なんとなくベランダに出て青く広がる空をカメラに収めてみたり、明け方まで本を読んでみたりしましたが、どれもあまり面白くもなく、1人静かな部屋でずっとベッドに横たわっていました。
一歩も外に出ない生活が終わって、高校が始まった時は外の眩しさと自分の足で歩くことに不慣れな感覚を抱いたものです。

空虚な夏休み、ベッドの上でいろいろなことを考えました。
その時初めて私は、引退した先輩と、同期と、後輩と顧問を繋ごうとしていた自分という第5の立場がいたことに気がつきました。

でもその立場に立つ人間は、このように床に臥していて。

それでもなぜか楽しそうにバレーをやっている、同期と後輩と顧問。繋がなくても繋がっている。

そうであるならば、きっと私がやろうとしていたことは、(意味や価値があるかは別として)不要だったんだな、そう思いました。

私は自発的に仲間の中から外れて、1人で躍起になっていたのかもしれない。単なるお荷物だったのかもしれない。

そんな気がして、言葉では表せない葛藤と疎外感に襲われました。

チームに戻った時のこと

部活に戻ったのは秋の末でした。
もともと居づらかった部活に戻るのは正直気が引けましたが、部長としての仕事は続けていた以上、一度は戻る必要があると思っていました。
居づらい部活でもなんとか居場所を見つけようとして、後輩の相談に乗ったり、部活全体を俯瞰して何か改善できるものがないか探したりしていました。
バレーボールの選手として戻ろうとは思うことができませんでした。

やがて冬が近づいた頃、練習試合で私はピンチサーバーとして顧問に呼ばれます。合宿で倒れて以来初めての試合でした。

私はボールを受け取ってコートの後ろに立ちました。
その瞬間、私は竦みました。
残りの5人、ネットの向こうにいる相手、ベンチからの視線が全て私に向いているような気がしました。

やってやるぞなんて気持ちは微塵もないのに、今私はコートに入っている。
私が打ってこの1点の争奪戦が始まる。
このサーブが入ろうが入らまいが、きっとチームメイトも誰も、何も関係ない。ただ自分だけが、何かしらの要因で自分を責め立てるだけなんだ。
それでも表だけでもと彼女たちは私に期待をするんだろうな。

全ての仮初めの期待が、私の背中に重くのしかかっているように感じて、手も足も震えてしまいました。


どうして私はこのメンバーと共にコートに立っているのだろう?

そんな問いが自分の中に浮かんだ時、私は1つ上の代と練習していたことのことを思い出します。
なぜ続けるのかも分からずにただただプレーに専念する。

そんなのできない、と私は思いました。

私の心の中に住まうキャプテンが、いくら「変われよ」と言っても、それだけはできない、私にはできない…
いくら考えても、考える度にそこで行き詰まる日々が続きました。

閉塞感と引退

そんな毎日を送っていたことで、私の心は閉ざされていきました。
周りからあたたかい言葉をかけてもらっても、それを斜に構える自分がいました。

素直に他人の言葉を受け取って感化されることを、心の中の自分が忌み嫌うのです。
どうせそんなの本心からじゃないんだろ、他人の人生に干渉されてたまるか、と。

それは部活だけにとどまらず、普段の生活でもそうでした。だからこそ自分で何かに気づいて行動することが課せられたのだと思います。

「女バレ、顧問変わって緩くなったんだって?」
「うん(私やってないから知らないし、緩くなることが必ずしも正義じゃないし、確かに緩いと言えば緩いけど、私にとってあれはただの「ヌルい」で、あれの部長だと思うと嫌気がさしてたまらないんだけどね)」

「文化祭、調理室で切り盛りしてくれてありがとう、すごかった」
「うん(1人じゃ何も決められないしほっとけば喋ってばっかの周りのレベルと比較するな、これが普通だしむしろ商品の提供が遅れてるんだからできるだけ急ぐのが普通だろ、それがすごいと評されるって、さては君もこれを当然だと思ってないね?っていうかその感謝本物?1日休憩なしで使い倒してその表情?)」

「自分の殻を破れてないから、自分で努力しないと変われないぞ」
「そうですね(ごもっともだけど、ただでさえいづらいこのチームで1人で自分の殻を破るために努力することの意味、本当に分かってるの?合宿の途中で破りかけた殻を破りきる必要はあるの?どうして私の望むようにさせてくれないの?今から変われたとしても、私の中のわだかまりは消えないし)」


私は、誰のことも信じられなくなってしまいました。

そんな心持ちのまま、試合には出ることなく引退の日を迎えました。
(おそらく少なからず私も含まれているであろう)同期のために泣いてくれた後輩にも、私は素直な気持ちを表すことができなくて、斜に構える自分を糊塗して「いい先輩」として振る舞ったのを覚えています。

引退の日、家に帰って寝るときに私は高校の部活でのことを回想します。
思い返せば、自分が「バレーをやりたい」と思った期間と、心身健康的に「バレーができる」期間は、1つ上の代が引退してからの1ヶ月だけだったのかもしれません。
2年と数ヶ月の中で、私は一体何を得たのだろうか?

何もなくていい。そういう人生なんだ。

私はそう考えて、眠りにつきました。
もう、この約2年のことをあれこれと考えるのはよそう。

考えるだけで、カメラに映したあの眩しい夏の空を思い出して、溜め息が出てしまうから…。

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やがて受験を終えて卒業する頃になっても、当然その心持ちは変わることなく、そのまま大学に進学します。

これが私の高校生活でした。

大学に進学してからも、「友人」に対して全幅の信頼を置くこともありませんでしたし、何に対するモチベーションもなく、ただやるべきことを淡々とこなすだけの生活でした。
ただその自分の心の持ちように客観的な観察ができるようになっただけで、だから変わろうとか、変われるとか、そんなことは思っていませんでした。

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高校時代の大きな思い出、経験値をやっと自分の言葉で文章化することができました。決して甘いものでも楽しいものでもありませんが、大切な約2年でしたし、今の私を形作るには決して欠かすことのできない要素だと今では思えています。
今回お話しした私から、「今の私」への心境の変化も、近日中に言葉にできたらと思っています。

なお、二度寝はしません(フラグ)。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。