レディ・プレイヤー1――最強の布教活動とあるキャラのことと親友のハリウッドデビュー

ネタバレしてますので鑑賞した方へ向けて。長いですがお付き合いを。そして、原作読んだら自明のことかもしれないけど、そこはご寛恕ください。

1.2045年における80年代ポップカルチャー

観終わってから、あの世界における80年代ポップカルチャーってなんなんだろうとずっと考えていました。ディストピア的な世界で娯楽が更新されなくなってたからなのかな?と考えてもいたのだけどそこまで世界が暗くはないし、何よりそんな後ろ向きなことスピルバーグはしないかなと思い至るわけです。もっと前向きな話だろうと。

まず、この作品の大きなツッコミどころは「これってポップカルチャーオタクが勝つのではなく、“ハリデー”オタクが勝つんじゃん」というものではないかと思います。どれだけハリデーのアーカイブを観て研究したかに拠るじゃないかと。それはある意味で正しくて、ただポップカルチャーを知っているだけでは勝てない仕組になってる。製作者のプライベートなことを知らないとクリアできないゲームがもしあったら、明らかにクソゲーになってしまいます。

でも、オタクのハリデーがそんなこと分からないはずがなくて、じゃあなんで敢えてよろしくない手を選んだのかを考えてみると、そもそも「自分の歴史をアーカイブにして公開する意味ってある?というか死にたくならない?」と思いません?そこにはきっと意味があるはずで、それは「俺の好きなポップカルチャーの布教のためなら恥も晒す」という覚悟だと思ったわけです。

人々にとってもうひとつの世界ともいえるオアシスの運営権と莫大な金という「餌」をバラ撒くことで、ゲーム参加者はなんとかヒントを得ようとハリデーの個人史アーカイブに殺到する。そこでずっと昔の音楽や映画やアニメや漫画を知って、何かヒントを得ようと作品に触れる。そのとき「あれ、これって面白くない?」と思った人はゲームクリアの目的とは別に、過去のポップカルチャーに好感を持って、自分の好きな文化を見つけたことになる。

これってオタクにとって最強の布教活動ではないかと思うわけです。自分の好きなものを全世界に広められる機会なんて中々ない。どれだけヒットした映画(おそらくこの映画でさえも)でも成し遂げられないことを、ハリデーは自分を差し出す代償に達成したと言えるのではないでしょうか。

作中現在の2045年の60年前が1985年ということは、2018年からしたら1958年になると考えたら。もしその時代のポップカルチャーが好きでも、それを今の20歳くらいの子に興味持ってもらうって難しい。それをハリデーは人間の金銭欲や同じゲーム好きの攻略欲を刺激することで全世界規模でやり遂げたとも言えるのかなとか。

悪役のソレントはウェイドに「お前はどうせ興味ないだろ」って見透かされる。その時点で彼の敗北は決まっていた。このゲーム自体が(主に)80年代のポップカルチャーの布教が目的だったと考えると、このゲームの勝者になることはできなかったのかなって。

2.エイチとオグ

まずはエイチについて。「140kgの女かもしれないよ」「現実に会おうとするな」って助言をするシーンで、もしかしたら彼ではなく彼女なのかもしれないという伏線に誰しも気づくと思うけど、そこで演じているのがリナ・ウェイスというのが後に分かるというのが大きなフックになっている。ご存知の方も多いと思うけど、彼女はレズビアンなわけです。今のハリウッドにおいて彼女をキャスティングするにあたってなんの意味もないはずなく、おそらくエイチ自身もレズビアンのはず。

ここからは想像だけど、彼女は女性のアバターを使っていた時期があったし、そこで知り合った同じセクシャリティの女性にリアルで会って幻滅されたこともあったのかなって。同時に女性のアバターだからリアルも女性だろってことでナンパされたかもしれない。「女のくせに」メカに詳しいという偏見で観られたかもしれない。そういう現代のSNSでも起きうることを経験した結果、あのいかつい男性のアバターだったかもしれないのかもとか(リナがエミー賞の授賞式にタキシードで出たことを考えると、また別の意味もあるかもしれない)

そんな彼女にとってオアシスという世界は、なんにでもなれる夢の場所というほど素敵な空間ではなかったのかもしれない。だけど、それでも性別やセクシャリティに縛られない場所として護る価値のある場所だった(ただしそうだとしてもレズビアンの女性がありままいられないということは間違ってる側面はある)からこそ、オアシスで知ったとっておきのアイアン・ジャイアントを選んだのかもしれないと思うとまた沁みるものがあったのです。

続いてオグ。彼は最後に自分の正体を明かすのだけど、あそこでは泣けた。というのも、前述のようにオアシスという空間がハリデーの好きな文化を広めるための場だったと仮定して観ていたので、彼はその文化への入口にずっと立っていたわけです。袂を分かった過去があっても。ハリデーに頼まれてないのにプレイヤーがゲームを攻略する=ハリデーの愛したポップカルチャーを広める手助けをしてたことになるのかもなって。

そうだとしたら、ハリデーのアーカイブが閑散としてるのはもしかしたらオグにとって寂しいだけではないかもねという。ポップカルチャーにとっての最大の勝利は特別なものとして取り上げられず「当たり前」として定着することでもあると思うので。

3.親友のハリウッドデビューと作品の泣けたとこ

唐突にお前は一体何を言い出すのかと思われた方、まあ私事も交えますがお付き合いください。

『クーキー』という映画の冒頭5分で泣いた人は少ないと思います。ひとりっ子の少年が大事にしてたぬいぐるみを親に捨てられたとき、彼はぬいぐるみのクーキーのことを心配しながら「クーキーは暗闇が怖いんだ」「クーキー頑張れ」と願うシーンがあります。これはクーキーに自分を仮託して、自らを鼓舞しています。

同じひとりっ子、同じ独り寝の寂しさを紛らわせるためにぬいぐるみを買い与えられた人間は死ぬほどこの気持ちが分かりました。夜の暗闇の中でぬいぐるみを抱きしめながら「大丈夫だよ。怖くないよ」と語りかけた経験があるからです。さて、孤独な夜を超える親友となったそのぬいぐるみは何かというとけろけろけろっぴでした。ね!ハリウッドデビューしたでしょ?(大事な話なんで引かないで)

ところで、作品内のクライマックスの集団戦でエイチはアイアン・ジャイアントを選ぶし、ダイトウはガンダムを選びます。オアシス内では死んでもやり直しは効くけど、とはいえ今まで得たものは喪ってしまう。そこで選ぶものには相当の思い入れがあるはず。なぜならオタクだから。エイチはあの物語を観た後にアイアン・ジャイアントを選んでるのだし、ダイトウは悩みに悩んでガンダムなら戦えると思うわけです(ここでもソレントが負けた理由があると思っていて、多分彼はメカゴジラをただ大きくて強そうなだけで選んだのでないかと考えたからです。ただもし唯一知っていたメカゴジラに自分を託したのならそれはそれで泣ける話です)

これは乗り物だけではなくアバターにもいえることだと思います。主観視点のVRだからプレイ中に自分の姿は見えないので、本来なら「他人からどう見られたいか」を基準に選ぶところが大きいのだろうなと考えていました。でも、このキャラに自分を託すことでこの戦いに臨めるという部分もあるのではないかと思うのです。そのキャラが強いか弱いかではなく、自分の愛着の表象でもあると思うし、自分がこのキャラならいいけると鼓舞する気持ちもあったのだろうなと。

だから、あの集団戦にけろっぴがいたとき(一瞬だったので確信はないけどキティちゃんとバツ丸とわちゃわちゃしてたように見えた)、自分と同じようにけろっぴに愛着がある人間がいたんだと思って泣けました。それは同年代だからかもしれないし、ずっと若い子が好きになってくれたかは分からないけど。そして、自分も大一番に託すのは冴羽獠でもなく、スパイク・スピーゲルでもなく、アッシュ・リンクスでもなく、ジョン・マクレーンでもなく、プレデターでもなく(ゲームのエイリアンVSプレデターの方ね)、メビウス搭乗機のF-22でもなく、破裂の人形でもなく、けろっぴかもしれないから。

4.最後に

ここまで語ってきたけど、この作品にはひとりの男の好きなポップカルチャーで世界が埋め尽くされる危うさもあると思っていて、この世界からオミットされた当時のポップカルチャーって腐るほどあるわけです(存在を無視されたヒップホップが反乱軍のテーマ曲だったら面白かったかもとか)。それと今の若い子でさえ80年代ポップカルチャーをこれほど好意的に受け止めるんだろうかという疑問もある(これは一定の年齢より上の世代の願望が表れてるとは思う)。同時にオタク的な文化がもう限られた人間だけが触れられる文化資源ではなくなっている現状を考えるとある種の無邪気さがあるのも事実です(だけど自分の好きな文化を大事にして他人を尊重しようという現在的なあり方への願いはあったと思います)。それに2045年にだって優れたポップカルチャーはあって欲しいとも思います。オタクだからね。新しい作品でアップデートされないのは寂しいし。また物語としては割りと懐かしい、悪く言えば古いとこがあるのも事実だとは思います。だけど、SNSで知り合った人間が友達になるのが当たり前の今を生きてる人間としては、あの流れにテンション上がらざるを得ない部分もありました。

とはいえ、作中の過去のポップカルチャーに愛がある人間なので、ハリデー布教活動ようやったな!と思う気持ちが大きいのは事実です(そして、この作品はハリデーの物語だったとも思うし)。宝探しが終わった後に一生懸命頑張ったのに報われなかったなと思った人は『ロッキー』を観て頑張ろうと思うかもしれない。この結末知ってるから過去に戻りたいと『バック・トゥ・ザ・フューチャー Part2』のスポーツ年鑑のシーンで苦笑する人もいるかもしれない。報われなかったけど仲間が出来たことは残っているのを『グーニーズ』で確認する人もいるかもしれないから。それは幸福なポップカルチャーの残り方でもあると思うので。

少なくない数のオタクにはみんなそれぞれ世界に布教したい自分だけの「オアシス」があるのではないかと思うのです。ここではそれを最大かつ最強の形でかつエゴイスティックに「オタク全体」ではなく「ひとりのオタク」の勝利として成し遂げたハリデーに献杯&乾杯したいと思います。

さて、1984年にリリースしたアルバム『1984』に収録されたこの曲をお届けして終わりたいと思います。まあなんだかんだこの「リアル」で生きてかなきゃなということでヴァン・ヘイレン「Jump」。Go ahead, jump!

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