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自分はNobodyであることを受け入れる

数字は人間の認識に、分かりやすい共通了解をもたらしてくれますが、同時に人を思考停止にしてしまうことがあります。インターネットにおける「信頼」を定量化した、SNSによる「いいね」という評価関数が、インターネットにおいて声の大きな存在である「何者」かになる強迫観念を醸成してきました。

定量的に評価されるものが、ドーパミンの放出と一度結びついてしまうと、人は無意識にそれを評価関数に設定して、それを最大化するように常に頑張り続けるような、思考停止のAIと化してしまうことがあります。受験戦争を勝ち抜いた有能な人が、裏を返せば著しく視野偏狭なのはよくあることです。

最近はnoteの記事を見ていると、こうして醸成されてきた「何者欲求」へのアンチテーゼも多く見かけるようになり、「やりたいこと」とか「人生目標」とか大きなこと言わないで、「あなたそのままでいいじゃない」という主張の割合が多くなってきたように感じます。

僕も、大学に入りたての頃は、想像上の「大きな、広い世界(=ざっくりいうと、海外で活躍というキラキラした響き)」「偉大な人(=起業家とか)」への妄想を膨らませていた(だからこそ意識が高いと揶揄されるわけです)のですが、最近ではそうした考えに息苦しさを覚えてきた気がします。

例えば、最近気をつけたいと思っているのは、大きな世界、スケールの大きなものだけに感動するようにならないこと、です。理由は、マクロな世界よりも、ミクロな方向への軸の方がはるかに大きく、豊かだからです。ミクロな方向へ軸を伸ばすとは、例えば日常にありふれる、これまであまり注目してこなかった体験を、じっくりと凝視してみることです。これはnoteで他の方々が描く繊細な日常を読みながら、学んだ姿勢です。

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ところで、何者かになる、とはどういうことでしょうか?

世界における自分の役割をきちんと言語化できることでしょうか?他人による正当な評価の数が増えることでしょうか?僕が想像していた「何者」というのは結局、要約してみれば「世間に注目されること」、それでしかなかったわけで、高尚な欲求でも何でもなかったわけです。

僕の「何者」に対する定義は、「社会的に広く受容されるラベルで自分をidentifyできる人」のことです。「できる」というとポジティブな響きがしますが、別に「何者」が偉いわけでもなんでもない、と思います。もちろん、こういう主張は、自分が「何者」になってからでないと、他人には響きません。「何者」からすれば負け惜しみにしか聞こえないからです。説得力の原理として、「ある性質を批判する行為は、その性質の所有者に限られた特権である」というのがあると思います。学歴のない人が学歴を批判しても「コンプ」と片付けられるし、お金のない人が「お金が全てじゃない」と主張しても、誰も信じてくれないのです。

僕は生きてきて20年間、ずっと「やりたいこと」を探してきたわけですが、全然見つかりませんでした。「」をつけたのは、みんなが言うのは「狭義」の「やりたいこと」だからです。みんながあなたに聞く「やりたいこと」とは、ほとんどが、単に「なりたい職業」を意味しています。「こと」じゃあないんです。みんなは、あなたが将来、自分に貼りつけたいと思っているラベルを聞いているだけです。

他の人に会えば、「将来何やりたいの?どの会社で働くの?(あるいはどんな会社で働いているの?)」とつくづく聞かれるでしょう。でも、この質問に圧力を感じる必要なんて全然ないと思います。彼らだって、自分の将来が分からないことに不安を感じているからこそ、聞いてるだけだと思うからです。みんな、この質問に対する答えを必死で探しているから、あなたの回答が気になるだけなんだと思います。そもそも、本当にあなたのことを知っている人は、ラベルなんてなしにあなたの存在を受容してくれているわけで、ラベルでしかあなたを受容できない人に、良く思われたり、注目される必要はありません。

無理して将来のことに頭を悩ませず、*目の前のことを楽しむだけで良いと思います。将来のことを心配するのは取り越し苦労です。お金の心配をしなくていいとかそういう話ではなく、将来の自分の気持ちをいちいち想像するのは時間の無駄だと思います。

*目の前のこと、と言いますが、これも少々語弊がある表現です。これは刹那的な娯楽のことではないです。そして視野偏狭になれ、と言っているわけでもありません。なんとなく上手く表現できないんですが、目の前のこと、と言っても少しばかりは、将来のことを気にしたり、あるいはそこから生まれる価値を考えなくてはならないから、難しいんですね。僕が思う「目の前のこと」とは、「今の自分にできること」に集中する、という意味です。そして将来の自分とか自分の境遇、環境に過大な期待を持たず、今の自分が持っている力を肯定しつつ、思考のベクトルを今に向けることです。自分の人生における進歩史観を捨てる、という感じかな。「人生の時間はどの時点も等しくベストである」という認識に改めて、将来の自分はもっと優れている、とか将来はきっと良くなる、という淡い期待を捨て去ることです。夢を叶えるとかそういう話の以前に、目の前にある楽しみを見逃したまま、人生を終えることの方がずっと恐ろしいと感じます。
もちろん、こうしたイデオロギーは、生まれてずっと不況の中で育ったミレニアム世代に多く見られるとも自覚しています。

僕はしばらく、目の前の自分にできることを淡々とこなしていきたいと思います。これまで、本当に自分のことしか考えてこなかったな、と反省しています。恵まれてる自分のことしか考えてないから、やるべきことが分からないのです。他の人に対して何をすべきかを考えたら、困っている人はいくらでもいるし、今の自分にでも出来ることはいくらでもあるし、だからこそ「やりたいこと」なんかに悩まされずに前に進める、と思いました。というか、皮肉にも、僕の「やりたいこと」こそは、今の自分に出来ることを全力を尽くしてやることなのだったと思います。

「目の前の自分にできることを淡々とこなすべき」— これもべき論の一つですね。

こうした抽象的なべき論は世の中にありふれていますが、思想の選択については、その時々の自分に、一番しっくりくるものを素直に選んでいけばよいと思います。

そして人間の考え方はずっと変わっていくし、過去の考え方を嫌いになることもあります。そうやって同じ考え方を何周も何周も、深みを伴いつつ、文脈を広げていく形で、螺旋状に積み重ねていくのが大事です。ある時、何かに対して苦しいと感じているなら、その苦痛を少しでも減らしてくれるような思想を選べば良いと思います。もちろん、ある程度の汎用性と、長期性、安定性を持った思想ではないと、洗脳されてしまったり、視野狭窄になってしまったり、単なる正当化や自分勝手になってしまうことはあります。

人生の各所において身に纏う思想は、取捨選択していくものだと思います。何事においても、「慣れている人」と「初心者」の違いは、本質を見極められているかであり、重要なところを残し、不必要なものをそぎ落とすというメリハリがあるかどうかです。本質とは、より広い事象に対応できる汎化能力のことです。

初めは、ルールを頭ごなしに覚えてガチガチになっていたものから、徐々に不要なものをそぎ落とし、柔軟に、臨機応変にしていく過程が、人生経験を積み重ねていくという行為なのではないかと思います。英文法も同じですね。初めは分からないから、ルールをとりあえず頭にたたきこむのです。

しかし、事例を積み重ねていくうちに、潜在的で大事なところが徐々に見えてくるから、最後には「暗記」でなくなるのです。人生の「べき論」も、そうして個人の経験に基づいて積み重ねていくものだと思います。だからこそ経験の差異により、ジェネレーションギャップも、差別も偏見も存在するのですが、それはより多くの経験と視点を積み重ねていこう、という各個人の意識によって、少しずつ減らしていけるものではないかと思います。



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