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M-1の出囃子にあの日の想いをのせて

私は関西で育ったということもあり、子供の時から割とお笑い好きな方であった。

というか、お笑いがかなり身近な存在であった。


京都の祇園花月、難波のグランド花月には家族との思い出が沢山あり、有名どころでいうと、漫才をしていた頃のオリエンタルラジオ、ハリセンボンなんかを見た気がする。


高校生になった頃からTVをほぼ観ない生活になり、お笑いから完全に心が遠ざかっていたのだが、昨今の「プロのお笑い芸人でも、YouTubeやることは別に恥ずかしくないやん?」という風潮のおかげで芸人さんの動画をよくテレビではなくスマホで観るようになり、完全に私の中のお笑いブームが再燃している。


特にM-1をはじめとする賞レースの結果は、ここ最近かなり気になるようになった。

M-1の独特の出囃子を聞くと、なんとなくパブロフの犬的に胸がいっぱいになってしまう。



しかし、そもそも、人を笑わせることが目的である漫才を見るのに、胸を詰まらせるという、お笑いとはあまり縁のない気持ちを抱いてしまうのは何故だろう。



このことを考えたとき、数年前に観て強烈に印象に残っている一つのCMのことを思い出した。

そのCMがこれである。読み進める前に、一度これを観て欲しい。




「僕たちが声援を送っているのは、僕たち自身なのかもしれない。」

そうだ。まさにその通りだと思う。

誰かを応援するということは、自分を応援しているということなのかもしれない。

小学校の頃、クラスの男子の30%ぐらいはスポーツ選手になりたいと言っていた。

私のかつてのクラスメートたちは、一人でもその道に行ったのだろうか?

私の出身地はかなり田舎の方なので、市からプロが一人でも出たら市役所の建物に応援の横断幕がかかっていたはずである。

ちなみに小学生の頃の私は確か、歴史に関する本を出版したいとか書いていた気がする。

(アイドルになりたい♡とかじゃないあたりが、我ながら好感が持てる。)

そんな志は中学校に上がった時には既に忘れてしまっていたと思うが、もしあのままその気持ちを持ち続けていたとしたら、叶っていたのだろうか?

おそらく、今の会社に入社してサラリーマンすることの何千倍も難しい道だったと思う。

でもこれは、あくまでも小学校まで遡れば、の話である。

いつからかみんな大人になり、夢なんて見なくなる。

と言ってしまえば、流石に語弊があるが、夢を見て破れることを繰り返すというよりも、
自分の手の届く範囲で要領よく生きる術を無意識的に身に着けてしまう。

仮に何かを達成できなかったとしても、納得できる範疇の妥協策を予め用意して、保険を掛けることの大切さだって殆どの人間は嫌気がさすほどわかっている。

ここまで読んで、いやいや僕私はそんなことないよ。という方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれないが、それはかなり少数派である。

ただやっぱり、マジョリティーのみんなも、
どこかで引っかかっているものは絶対あると信じている。

「何者にもなれない」と今一度Googleで検索をしてほしい。

とんでもない量の情報が目に飛び込んでくる。

やはりモヤモヤを抱え生きている人は、現代の日本において少なくないのだと思う。

「何者にもなれなかったコンプレックス」に付け込まれ、インチキ臭いネットワークビジネスや、不気味な教祖のいるオンラインサロンに身を沈めたり、99.9%詐欺でしょという感じの金融商品を買わされたりしている人もいる。

「何者にもなれなかったコンプレックス」は、考えれば考えるほど、かなり危険因子である。

心の中に住み着いた、子供の頃の自分が三角座りをしてこっちをジッと見つめている感覚。

「結局、何者にもなれなかったね…。」そう恨めしく囁いてくる感覚。

そんな症状と正しく向き合っていかなければならない。

しかし人間は、そこそこに賢く、誰かの成功を自分ごとのように一緒に喜ぶことのできる生き物で、つまり「追体験」を追い求めることの楽しさもわかっている。

とんでもない金額分のCDを買ってでも、
17歳そこらの女の子をアイドルグループのセンターに立たせてあげたい!
この気持ちだって一種の追体験の希求である。ただの色恋や下心だけではないと思う。

かく言う私も女性アイドルが中学生の頃より大好きで、アイドルが頑張っている姿を見ていると心を打たれる。

下積み時代が長かったメンバーの正式デビューが決まった瞬間、
ずっと目標にしていた大きなライブ会場での公演が決まった瞬間、

自分事のように嬉しく自然と涙が溢れてくる。

純粋に見てくれの良い若い女の子たちが、可愛い服を着て歌って踊っていれば、そりゃ観ていて気持ちが良いに決まっているのだが、
それだけでなく、彼女たちが夢を叶える瞬間を追体験したいという気持ちも
確実に存在するのである。



「僕たちが声援を送っているのは、僕たち自身なのかもしれない。」

つまり、この一言に集約されてしまう。電通さんが世に放った言葉には勝てない。

ただ純粋にお腹を捩らせて笑っていればいいだけのM-1を観て、胸がいっぱいになってしまうのもきっとそのせいだ。



エントリーした5000組にはそれぞれのストーリーがある。



大学を卒業して一度は会社員になったものの辞表を出した人、

コンビ結成15年目で来年の出場権はないため今年優勝するしか道がない人、

後輩がどんどん勝ち進んでいくのを、苦虫を嚙み潰したような顔で見るしかない人、

過去に上沼恵美子に「よう決勝残ったな」と酷評されたことのある人。



全てを背負って、たった一組の優勝者が決定する。


優勝者が決定した瞬間に、心の中の子供の頃の自分もどこか誇らしげに笑顔で拍手をしてくれている。

その気持ちも含め、胸がいっぱいになってしまうのかもしれない。

「何者かになれた人」の成功を一緒に喜ぶことは、決して悪ではないと思う。

日頃何も頑張っていなかったのに、甲子園球児の死闘を見てその瞬間だけ涙している女子生徒に腹立つと、どっかの大御所芸人が言っていたが、私は全くそんな風に思わない。

追体験的に感動して、明日から自分も頑張ろうと思えるならそれでいいんじゃない?と思う。

アイドルみたいに、歌とダンスでみんなを笑顔にしてあげることもできなければ、お笑い芸人のように、笑いでみんなを明るくすることもできない私だが、彼らの頑張りや成功を追いかけ、時に悔しさを時に喜びを一緒に味わいながら、明日からも粛々と何の変哲もない自分の人生を生きようと思う。




「でもおかんが言うにはな、とまあこんな具合にこの人長々と偉そうに語ってらっしゃるけど、友達との焼き肉を優先して、去年のM-1をリアルタイムで観ていないらしいのよ。」

「ほなそこまでのお笑いファンとちゃうやん」



と心の中の小さいミルクボーイ内海さんがあきれ果てているところで、そろそろみなさん、もうええわ!となっていることと思います。それでは、どうも、ありがとうございましたー。



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