身体も愛のまなざしで慈しむ
数日前に、シェア会をした時に質問をしてクリアになったことがいくつか、、
目に映るものに"意味"はない。どの視点で見るかに"意味"がある
あらゆる感情も湧き続ける泉のように、いまこの瞬間に感じたまま感じる
ということ。
例えば、癒されてきたら目に映るものが癒されて見える、、ならば今私の目に争いのニュースやひどい言葉を言う人がいるなら、私の中の投影だから、癒していかなきゃ、、。
ではなく、
争いのニュースやひどい言葉を言う人がいたとしても、それはお天気のようなもの。
地球全体で見れば、雨が降る場所も晴れの場所もある。
だから、愛の視点で見るか、それ以外で見るか。
と、同時に、ひどい言葉を言われたからって、
「腹が立つ!"そんなこと言われたら私だって傷つきます!"」って言葉にしちゃいけない、わけではなく。
ただ、その瞬間に素直になって、その言葉を伝えたあと、愛の視点に預ける。。
とにかく、何かに蓋をしたりする必要はない。
それと同時に、ずっとこの半月ある身体の不快感に昨日またどんよーりしていたら、
「こころでからだの声を聴く」が降りてきた。
読んだことないけど、今の自分に必要な気がして読もうと思ったら、なんと夫が風呂場で「珍しくこれ読みたくなって読んでたら結構いいよ」と言う。。!
そして今日読んでいたら、身体を愛することについてずっと話が続いていて。
「身体の不快感が嫌でたまらない。。」
「なんで私はいつもこうなんだろう、ストレスがかかると身体に出ていやだ」
と思って、その度に愛に委ねたりしてたけど、
「逆にどうしたら良い?どうしたい?」と身体に聴いたり、
不快感をウェルカムな気持ちでステップとしていったら、
「私は身体じゃない」だけど、身体も愛するってことが心地良くなってきて、
なんだかほんわかしてきた夕方だった。
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