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覚悟してても悲しいものは悲しい

ありきたりな話し

87歳のじいさんのいのちがゆっくり終わりに向かっていってる。

ゆっくりだから覚悟もできるはず。

口から栄養を取れなくなってる。
最初は嚥下が悪いだけだったのに。

多分消化器の吸収も悪いんだろう。
胃から栄養を入れるんじゃなくて血管に直接点滴で入れてるらしい。

全部母から聞いただけの話し。

尿の排泄も悪いって。
腎臓機能を示す数値が悪いらしい。

ゆるやかにだと思ってたけど、もしかしたらゆるやかじゃない可能性も出てきた。

ゴールデンウィークに帰省するつもりだけど間に合わないかも……。

なんて思考がよぎる

母との電話口で口走りそうだったけどさすがに言うのはやめた。

別に特別じいちゃん子って訳でもないけれど。

祖母が亡くなってから急に認知症を発症したじいさん。
典型的な昭和男のじいさん。

台所に男が立つのは恥だと教えられて育っている。

袋麺を茹でることが精一杯の料理。

それから母が心配してじいさん家に住み込みでじいさんの世話をし始めた。

母は長く勤めていた会社のパートを辞めて
じいさん家の近くで新しい仕事を始めた。

身体が丈夫なわけでもないのに歳いってから重労働な介護職に就いた母。

過労で難病になってしまった。

病名がつくまでかなり時間がかかった。
セカンドオピニオンどころではない。

わかっても治療は手探り。

母は入院することになった。

統合失調症で前の職場を辞めてプラプラしてた私は20歳でじいさんと母のダブル介護状態になった。

母の入院中はじいさんと二人暮し。

じいさんは認知症だから会話は堂々巡り。
着替えも食事も見守りが必要。
トイレもたまに忘れちゃうから部屋で放尿。

幸いにも記憶力がわるくても会話はできるし、足腰もしっかりしてた。
だからまだ頑張れた。

友達と遊びに行くなんてことは出来なかったけど、コロナ禍だったからそんな状況でもなかった。

息抜きはできなかったけど、遊んでる友達をSNSでみて羨むこともなかったからよかった。

じいさんは昔から寿司が好きなイメージがあった。
だから生魚が好きなんだと思ってた。
だから二人暮しの間よく刺身を出してた。

でも箸の進みが良くなかった。

だからなんで食べないの?って聞いたら
寿司は魚が好きなんじゃなくて酢飯が好きなんだ!と言ってた。

なるほど!そりゃ刺身は好物抜きだから食べたいもんじゃないわけだ!

自分が刺身が好きだから勝手に間違った解釈をしていた。

その後母が退院してから、じいさんの誕生日の日にちらし寿司を作ってあげた。

エビでハート型作ってハッピーバースデー歌った。

じいさんポロポロと泣き出しちゃった。
嬉しかったんだって。

次の日には忘れてて
俺の誕生日プレゼントはないんか?
ってせびられた。

でも、写真には残ってる。
写真が記憶してくれてる。

正確には記録だけど。
私にとっては記憶だ。

母の病状が落ち着いて
父が前の会社辞めてじいさん家の近くで住み始めて

なんとか私が安心できるような状況になって

私は結婚の為じいさん家を出ていくことになった。

じいさんはお調子者なタイプで
いつも私をからかってきたり、冗談を言ってきたりする。

なのに、私がじいさん家を出ていく日は
全然口を聞いてくれなかった

ばいばい、またね。って言ったら
目も合わせずに

ん、ん、

ってそっぽむいて軽く頷くだけ。

あとになって母から聞いた話

じいさん私が出ていってから約1週間
私がどこにいるかを尋ねてはめそめそ泣いていたらしい。


私が出ていってからさらに認知症がゆるやかに進んで
食が細くなっていって
足も手も浮腫でパンパンに膨れ上がって

入院になっちゃって
ますますご飯が喉を通らなくなっちゃって
寝たきりになっちゃって
お話が上手じゃなくなっちゃって

覚悟はずっとしてるつもりだった。
でもいよいよだって思ったら覚悟なんてペラペラだった。

90歳まで生きるって言ったのに…。

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