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抽象化は抽象化でしかない。


前回ね。
ちゅーしよっかっていう記事になってしまった抽象化の話なんですが、思いのほか「抽象化」の部分の詳細が気になったと言う声も頂いたのでここで声を大にして言いたい。

抽象化は抽象化以外のなにものでもない。
誰だよちゅうしよっかとか言ったやつ。表出ろよ。


ということで前回の抽象化についてはこんなことを書いていました。

抽象と具体を行き来することが出来る、どのレベルの抽象次元で話をしているかがわかる人が頭のいい人なんじゃないかという話だ。

別にそんなに意識して書いた文でもなかったのだけれど、なんか刺さったらしい。

嬉しい。

ということで今回はこの1文をもう少し掘り下げてみたいと思います。

「まず抽象と具体を行き来することができる」というフレーズ。

「まず抽象と具体を行き来することができる」


言葉の意味で説明してもわかりにくいので「具体的」な例を挙げてみよう。
例えば昨今では「サブスクリプションモデル」というのが少し流行っているように思う。

この「サブスクリプションモデル」という単語は具体的だろうかそれとも抽象的だろうか。

答えは「どちらでもない」である。
個人的には「サブスクリプションモデル」というのは比較的抽象化された側の単語であるように思うが、かといって抽象的な言葉だとは限らない。

というのもこの具体と抽象の構造はピラミッドのようなものでもっと抽象化もできるし、もっと具体化もできる。

具体化するならなんでもいいがAmazonPrimeあたりが全範囲的にわかりやすいだろうか。
具体化の先のAmazonPrimeという単語はかなり具体化されたものと言える。

逆に抽象化した場合は入れ子のような構造になる言葉で抽象化することもできるが、具体化する場合のようにサブスクリプションモデルの一部の事象を取り出して抽象化することも多々ある。

前者であれば
ビジネスモデルという言葉が当てはまるかもしれない。
サブスクリプションと誰かが言ったときに、

あーそれって「ビジネスモデル」の一種だよね。
これの「」に入るような言葉は抽象化された先にある単語だと言えるだろう。

そして後者であれば
サブスクリプションモデルには「コト消費」っていう側面もあるよね。
といった感じだろうか。

サブスクリプションモデルはモノが手に入る場合もあるが、ベースは定額課金で一定のサービスを受けるという「コト」である。

そういった側面を切り取って抽象化して捉えている。


こういった単語間を行き来することができるということは
・その物事を知っている。
・その物事の具体的な例を知っている。
・その物事の本質や核を知っている。
といったことが必要になってくる。


例えばAmazon Primeを知っていたとしても、サブスクリプションモデルという言葉を知らなければ、その後の会話でサブスクリプションモデルという単語が出てきた時点で詰む。

逆もまた然りでサブスクリプションモデルという単語を知っていてもAmazon Primeを知らなければその具体的な話についていけなくなるだろう。


そしてこの抽象化と具体化の連続は止まることはない。


例えばサブスクリプションモデルという単語で始まった話がAmazon Primeという具体化されたトピックに切り替わった。
そのあとAmazon Primeという具体から、その一部の事象である無料速達サービスに話が及んだとしよう。
そしてその話が配達サービスという一段階抽象的なものが中心の話に移り、最後にはその配達サービスが具体化されドローン配達の話に帰着した。

といった流れだ。


これは普段から私たちがなんの意識もなく行っている会話の一連の流れではあるのだが、この流れを遮ることなく滞りなく進めるためにはそれらが何たるかを把握していなければならない。


その会話の引き出しが多い人が、多様な具体と抽象の行き来が可能な人であり、頭がいい人なのではないかということなのだ。


これは単に知識が豊富なだけではなく、事象ごとの繋がりや、先にも出てきた本質を見抜く力も要求される。

そこが知識マニアとは一線を画するところだと思う。

とはいっても知識マニアも十分すごいことには違いないのだけれど。


そしてここから次のフレーズ。

「どのレベルの抽象次元で話をしているかがわかる人」というところを考えてみる。

「どのレベルの抽象次元で話をしているかがわかる人」


これは結局は先の話と似たようなもので、同様の例を持ってくると、

そしてその話が配達サービスという一段階抽象的なものが中心の話に移り、最後にはその配達サービスが具体化されドローン配達の話に帰着した。

この文の「中心の話」の中心が見える人、共有できる人のことを指すように思う。

このフレーズの発端は友人と話していた時に出てきたものでもある。
そのときの会話は

私はフランスに行くことで多くのものを失った。
ピアノの腕もそうだし、日本にいたらもっと使えるリソースがあるから、もっと色んな人に出会っていただろうに。

あー要は機会損失的にってことか。

そうそう。

あーこういう概念を共有できてる人と話すと会話が楽やわぁ。

という一連の会話である。

このとき私の発していた言葉は相対的に具体。

そしてそれを機会損失という言葉に集約したところが相対的に抽象。

そしてその機会損失という概念を共有しており、それが私の話を抽象化したものだと瞬時に判断できる能力がこの「次元を理解する能力」に他ならないと思っている。

この概念を共有できていない人と似た会話をしたときには
え?でもそれって失ってなくない?
だって実際得たものじゃないし。

という言葉が返ってきたのである。

先ほどとは違い、この場合具体化された例と同じ次元で話が進んでいる。

それ自体は問題ないのだが、その後「そういうことじゃなくて機会損失っていう概念があって」という話をこちらからしなければならなくなる。

そうすると一旦話の腰を折ることになるのだ。

このように抽象化されたものの中には学問として立証され、一般化されたような専門用語や学説なども多聞に含まれる。

こういったことも知っていると知らないでは話の伝わる速度が違う。


しかしだ。

この抽象化と具体化には常に齟齬がある。

具体化も抽象化も事象から移動することには変わりないので、事象の重要な特性を見落としかねないのだ。

モニタリング生という話をしていた時があった。
モニタリング生は初回の講義は無料で、それ以降の継続にはお金を払わなければならないみたいな話だったと思う。

そのときに私はこの齟齬による本質を見落とすミスを犯したと思ったのだが、その具体例は忘れてしまったので実際のケースとは違うが、例えばこういうのはどうだろうか。

じゃあ全体で見たら一部のサービスは無料でその他は有料っていう風に取れますね。

なんていう人がいたらどうだろうか。
これは間違いではないが、完全に本質を見失っている。

これではラーメン一杯につきご飯一杯無料と同じようなもの?という風にすら解釈できる。

しかしこのモニタリング生の例では、「初回は無料で以降は課金」というシステムを残したままで解釈すべきというのが妥当だろう。

こういった落とし込みの齟齬によって話はあらぬ方向へと進むし、物事を分析するときに大きな落とし穴になる。

さらにはさっき言っていたような一般化された学説なんかに短絡的に置き換えることにもリスクが付きまとう。

一度頭に形があるものに言語化されてしまうと、他の情報をシャットアウトしてしまうからだ。

先の例でも機会損失という言葉を使ってしまうと
ピアノの腕が落ちたという機会損失ではない部分を軽視しがちになる。

これがおそらく一か月ほど前に投稿した1文のバックグラウンドである。

抽象と具体を行き来することが出来る、どのレベルの抽象次元で話をしているかがわかる人が頭のいい人なんじゃないかという話だ。

抽象化は抽象化でしかない。

どう間違えてもちゅーしようかではない。

ただ「抽象化」という単語から具体化と抽象化を行き来すればいつかはそこに辿り着くことはあるのかもしれないけれど。

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