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優しいピンクから始める/melancholy in pink


アルバイトのお給料の入ったマニラ封筒から、直接お金を払って服を買う。

美術画廊の受付嬢が先月買ったのは、アニエスベーのレースのブラウス。どうせ誰も訪れない画廊で、披露するあてもないのに、はなやかな服や靴でめかしこむのを、自分でも滑稽に思う。時給は、800円。

ビルのひとつ下の階には、オーナーの奥さんが営む「画廊喫茶」があった。角までしっかり固まったコーヒーゼリーに、あざやかなサクランボをのせて出すような喫茶店。自称画家や小説家、手相鑑定士といった、謎めいた常連客のタバコの煙が四六時中立ちこめ、長年の空気が染み込んだ壁紙や絨毯は、何色ともつかない色をしている。

受付嬢、つまり<私>は、奥さんに頼まれてときどきコーヒーを運んだ。

「やあ、お久しぶり。」

常連客のほとんどが私をオーナーの娘と勘違いしていた。彼らの時間は、もう何十年も止まってしまっているみたいだった。どうして見間違えることがあるのだろう。オーナーの娘は40歳で、私は20歳だというのに。

時計の針が16時50分を指したら席を立ち、埃ひとつないガラスケースを水拭きする。白紙の芳名録を閉じる。パタンと乾いた音が四方に吸い込まれる。

タイムカードをガチャンとすると、切り売りした今日が印字され吐き出されてきた。本日失ったのは、7.5時間。

レースのブラウスにコートを羽織って、くすんだ雑居ビルを後にする。何色ともつかないぼやけたビルの色が、そのまま町へ続いている。

いつかきっとこの町を出て行けると思っていた。

(お金を貯めなくちゃ)

労働の時間と服を交換しているだけの馬鹿馬鹿しい消費が、私をますますその町の泥濘みに留まらせていた。分かってはいるのに、次に踏み出せなかった。

臆病な受付嬢は、町を出て行くどころか、自意識を覆い隠したアニエスべーを脱ぐ勇気さえ持ち合わせていなかった。

大学ではシスターが『嵐が丘』や『ジェーン・エア』から、ヒロインたちの生きざまをしずかに語ってくれる。古典の中の女性たちの方が、21世紀の私よりもずっとたくましく生きていた。

(それでも、いつか、この町を出て行く。でも…… どこへ?)

よるべない決意をポケットの中に無理やり押し込み、真新しい服で、見慣れた道を行く。

行きつけの店のショウウインドウで、ピンクのワンピースを着たマネキンが手招きしている。春を先取りした、ベビーピンク。あれを着て街を歩いたら、どんなにか心がほぐれるだろう。色褪せたいつもの道でも、きらびやかな都会の大通りを行くような気持ちになれるだろう。次のお給料をもらったら、あれを買おうと心に決める。

画廊喫茶の奥さんは、ときどきお昼のまかないを出してくれることがあった。薄味のピラフにカレーをかけたもので、ランチの中ではいちばん高いメニューだ。

カウンターの端っこでそれを食べていると、お客さんが誰もいなくなったタイミングで奥さんが言った。

「この喫茶、閉めようと思うの」
「…え」
「もともと画廊のお客さんのために出した店で、私がやりたかったわけじゃないし」
「そうだったんですか」
「厨房とテーブルを往復するだけの人生に嫌気が差したのよ」

奥さんは短く切り揃えた白髪に手をやった。「この歳になって行きたいところも別にないけれど、世の中にはもっと美味しいものがあると思うの。これからは、そういうもののために世界中を旅してみたいわ」

そんなわけで、画廊喫茶は閉店した。常連客は町のどこかへ吸い込まれるようにいなくなり、奥さんと娘さんは長い旅行へ出た。
私はひとりきりで厨房とテーブルを往復し続けているような気がしている。タイムカード、ガチャン。また新たに剥ぎ取られた、7.5時間。

そして次の給料日が来た。仕事が終わった後、いつものように町をぶらつき、コーヒーショップに入ってメランコリーに浸る。

ふと奥さんのことを思い出す。ピラフのカレーが懐かしくなる。あのメニュー、何て名前だっけ。ピラフとカレーを合わせただけの、あるようでない、ふしぎな料理。美味しいようなそうでないような、なんとなく記憶に残る味。

奥さんはどうしてあのメニューを出すことにしたのだろうと考えていると、なんとなく一つのことに思い当たった。

ありふれたものを掛け合わせて、真新しいものを作る。

厨房とテーブルの間に非常口ハッチを見つけて脱出した奥さんは、元々そういう人だったのだ。そういえば世の中のほとんどのきらめくものは、そんなふうに物の見方を工夫する人々によって進化してきたのだろうと気が付く。魔法でも手品でもない、きっとそれは鍵だ。狂おしいほどに続いていく日常から、ほんのすこし面白くて豊かな方へ開くドアの鍵。

そうか、と私はひらめく。物の見方を変えるのだ。服に消えた時間を、また新しい何かに替えればいい。どこにも行くあてがないなら、自分で決めたらいい。披露するあてがないなら、こっちから行けばいい。

そのささやかな勇気を支えてくれる服に、これまでたくさん出会ってきたじゃないか。この服でどんな私になろうか、どこへ行こうか。誰に会おうか。服を買うという行為は未来なのだ。山のようなその可能性をハンガーに吊るし、クロゼットに閉じ込めたのは私自身だった。

メランコリーの溶けたコーヒーを飲み干し、ふたたび歩き出す。あのマネキンの前を通りがかる。ふわっとしたベビーピンクのワンピースは、モノクロームの背景からふわりと浮き上がっているようだった。頭の中に春が広がる。私は鞄の中でマニラ封筒を握りしめる。ぎゅっと握る。

服を買う行為は、きっと未来だ。

まずは優しいベビーピンクから始めてみればいい。私にとって、この町もその向こうの世界も、まだ何色ともつかない色をしているなら。



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【物語ふうに書いたエッセイ】、過去のことを思い出して書きました。読んで下さってありがとうございます。



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