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アリゾナの思い出/middle of nowhere

アリゾナで遭難し、ネイティブの人達に助けられたことがある。

私と友人、オーストラリア人のカップル、それから地元で生まれ育ったというサムは、ラスベガス郊外のユースホステルで知り合った。みんな人生の浅瀬で若さを持て余していたのだと思う。なんとなく意気投合して、翌日の夜明け前にはもうグランドキャニオンへ向けて出発していた。

ユースホステルにはウイスキーという名前の汚れた猫がいて、その猫にポテトチップスを与えようとしていた男がいた。その様子をハラハラしながら見ていたら、彼が話しかけてきた。それがこの旅の案内人となるサムだ。

「グランドキャニオンを案内するよ。案内料は交通費と食事代込み、50ドルでどうだい。ぼくが車を出す」

本当は嫌な予感がしていたのだけれど、友人が乗り気だったので断れなかった。一日中待っても誰一人訪れることのない美術画廊で働いていた私を、日本から引きずり出してくれたのが彼女だった。彼女には逆らえない。

サムのおんぼろの車にみんながぎゅうぎゅうに乗り込み、500キロくらい走った。後部座席の右の窓枠には、窓ガラスの代わりに汚い色の板がはめ込んであった。そのせいで、せっかくの美しい風景も、砂漠を駆け抜けていく爽快さもみごとに台無しだった。私たちは時々じゃんけんをして(「ロック、シザー、ペイパー!」)誰がその席に座るかを決め、それは最初のうち皆を楽しませたものの、しだいに皆の口数は減っていった。ひたすら平らに、どこまでも道は続いた。飛行機から見下ろしたアリゾナは、果てしなく乾いた平野に、地球の大動脈のような一本道が伸びているだけだ。その雄大な大地の上を、私たちは滑るように移動した。

途中、警官に車を止められた。2名の警官がサムに何か注意をしていたが、サムはヘラヘラと笑ってかわした。話している内容はよく分からなかったけれど、おそらく「車をメンテナンスするように」という忠告だったのだろうと思う。彼らは去り際に「いいか、ここはアリゾナだからな」と言い残した。

「もちろん、ここはアリゾナだ」とサムは頷いた。「That’s exactly where I was born. (ぼくが生まれた場所さ)」

グランドキャニオンの区域に到着したのは夕方近くだったと思う。休憩するところを探しながら、でこぼこの山道を走っていたとき、車がガクンと大きく揺れて停まった。外れたタイヤが目の前をころころ転がっていき、下り道の先でストンと消えた。

英語に「middle of nowhere」という表現があるけれど、それはまさにそんな場所だった。人里をはるか離れた、名もなき場所のど真ん中。

アリゾナで生まれ育ったサムは、スペアタイヤを持っていなかった。軽くパニックになった私たちがこれからどうすべきかを話し合っている時、4本足の、すばしっこい動物が視界を横切っていった。私の恐怖は生涯でいちばんのピークに達した。

「落ち着いて。鹿だよ」

とサムは言った。絶対に鹿じゃない、野犬かコヨーテだった、そして熊もクーガもいるにちがいないと私は思って泣きそうになった。私が今ここにいることを誰が知っているだろう?  知っているのは、馬鹿げた若さしか持ち合わせていない無鉄砲なこの5名と、おそらく今もユースホステルの窓辺で優雅にまどろんでいる猫のウイスキーだけだった。頭の中に想像のニュース速報が流れた。「邦人女性を含む旅行者グループがアリゾナ州で行方不明。ラスベガスのユースホステルを最後に消息を断ち…」 私たちはいつでも行方不明者になれるのだ。そう思うと、冷や汗が流れた。

いつだってそうだったじゃないか。友人が勇敢に先頭を走り、私は最後尾で舵をとって見守る。これまではそれで上手くいっていたのに、どうして今回はそれを怠ってしまったのだろう?

自分の軽率さと不運を呪いながら、ひとり車中で心を静めようとしていたら、みんなが私を呼んだ。

「せっかく星空が綺麗なのだから、一緒に見ようよ」と。

しぶしぶ外にでると、これまでに見たことのない壮大な星空が広がっていた。渓谷に囲まれたその場所は、周囲に星の光を阻むものが何一つない。私はその美しさに思わず息をのんだ。

私たちに謝りもしないサムが、「すべてを忘れられる星空だ」と、あまりにも調子の良いことをつぶやいた。一体この男の神経はどうなっているのだろう?  でも私は何も答えなかった。腹立たしさもあったが、その無数の素晴らしい星の瞬きにすっかり圧倒されていたのだ。

「さあ、ディナーにしよう」

サムが食事を本当に準備していたなんて驚きだった。彼はハムをスライスし、アボカドをナイフで切り分け、それらをパンにはさんで全員分の簡単なサンドイッチを作った。腰を下ろした地面は冷やりとしていて、サンドイッチもそれに負けないくらい冷たかった。思ったとおり、特に美味しくもなかった。

オーストラリア人のカップルは、一枚の毛布にくるまって寄り添い、親密そうに何かをささやき合っていた。彼らが私と同い年だということ、そして結婚したばかりだということを、この時初めて知った。彼らにとってはこの食事も、天然のプラネタリウムに包まれたロマンティックな思い出になるのだろうと、なにげなく私は思った。でも、それは後に私自身のことになった。この時よりも記憶に残るロマンティックな食事は、私の人生を通してまだない。そんなことその時の私には、知る由もなかったけれど。

友人は私に「こんなことになってごめん」と謝り、私も「それはこっちのせりふだよ」と返した。圧倒的な美しさが、私たちから一切のいさかいを奪っていった。満天の星は地平線を越え、どこまでも永遠に散らばってゆくように見えた。

車中で一晩を過ごしたあと「Help us」という置手紙を車に残し、私たちは早朝から歩き始めた。観光案内所が近くにあるというサムを信じて。

はるかに広がる渓谷が最初の朝陽を受け、てっぺんから色づき始めた。その時の光景も素晴らしかった。紺とピンク、オレンジのグラデーションが空から地上に流れ込んでくる。光はまんべんなく万物の陰影をふちどりはじめ、自然は夜から朝へと霊的に姿を変えていく。

世界が自分のために存在し、開かれていると感じられる瞬間が旅の中にはある。いつもの脇役ではなく、主人公として認められたかのような。その時私は、自然がその肌をぎゅっと押し付け、「いつも最後尾の臆病なあなたが、よくここまで来たね」と、あたかも私を讃えてくれているような気がした。

やがて一台のジープが私たちを追ってきた。タイヤのとれた車と置手紙を見つけて駆けつけてくれた観光案内所の人達だった。ずうっと昔からこの土地に生きてきた人々だとすぐにわかる顔立ちの彼らは、衣服から煙たいような独特のお香の匂いを立ち上らせていた。間の抜けた観光客に慣れている彼らは何も言わずスペアタイヤを貸してくれて、車を直すために行くべき場所を指示してくれた。一ミリも微笑まない代わりに、善意だけがあった。私たちは心から安堵し、手を取り合って喜んだ。そのようにして、私たちは救われた。

無事にユースホステルに帰り着いた時、気怠そうにあくびをした猫のウイスキーを、私は思いきり抱きしめたくなったんだった。相変わらずひどく汚れていて、全然愛想は良くなかったけれど。

帰国後私は、社員の半数が外国人の企業に就職し、語学を活かせる英語公教育の仕事に7年間従事した。アリゾナの経験が私にもたらした実用的な教訓は、言葉もバックグラウンドも異なる人々とのチームワークで大いに役立つこととなった。予測のつかないトラブルに見舞われ、チームがもう一歩も前進できないような状況の時、私は、サムのように振る舞う。

「ねえ、いったん全てを忘れて、みんなでサンドイッチを食べよう」

そして今私は、「ライター」と印刷された新しい名刺を持ち、毎日文章を書く仕事に就いている。伝えたいことを書くために、己や他者の内側をどこまでも旅してゆけるなんて、これほど素敵な仕事があるだろうか。

でも実際の旅行では安全で人に迷惑をかけないことをこれまで以上に心がけるようになった。アリゾナへの旅からは、もう15年が経った。テレビや雑誌で見るアリゾナの表情は今、少し違って見える。人も場所も刻々とその姿を変える。あの頃の私の細胞はすっかり入れ替わり、今はほとんど残っていない。けれど、ほんとうに触ったものは五感の奥までもぐりこみ、確かに自分の一部になるのだと思う。
アリゾナの思い出は、だからいつだって再生可能だ。

日常の脇役をつい演じてしまう優しい私たちが、目の前のままならない現実に失望しそうになる時、それでも確かに世界は自分のために開かれていることを思い出せるよすがとして、いつでも再生可能な旅の記憶を持つことはとても心強く豊かなことだと思う。

もうすっかり私の一部になったアリゾナの思い出を語る時、言葉は私の中でわずかに香り立つ。そして旅の味わい深さをよみがえらせると同時に、あなたは世界の主人公であるのだと、すこしだけ背中を押してくれる。

小川の底にきらめく石のように、いくつものそんな瞬間が重なり合い、人生を支えてくれているような気がするから、きっと私は旅が好きなのだ。

グランドキャニオンやフーバーダム、おもちゃみたいなラスベガスの街の観光を、私たちは心から楽しんだように記憶している。でも、ほとんど覚えていない。都会の生活の中で思い出すのは、いつだってあの星空と朝焼けだ。






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読んでくださってありがとうございます。このnoteは、2017年2月に書いた『アリゾナの思い出』という記事を、「#旅とわたし」用に加筆・修正したものです。

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