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物語を読む人にひらかれる扉

5月の窓辺は、読書をするのにうってつけだ。ミルク入り紅茶はずっと適温で、マドレーヌはしっとりと美味しい。透明な光そのものみたいなそよ風が、むき出しの腕にあたってやわらかく砕ける。街の音が一枚の被膜をかぶったようにくぐもり始めると、物語の先はもう、マーブル模様の夢にとろけている。

あまりにも天気のよいある日、古い本を本棚から引っ張り出して読みたくなった。澄み切った青空の綺麗な休日だった。どうして外はこんなにも明るいお出かけ日和なのに、埃っぽい本棚を私は漁っているのだろうと思いながら、愛おしく古びた本たちを読み耽っていると、満ち足りた幸せな気分になれた。

物語の奥には以前から知っている匂いや手触りが流れている。すこし休憩するつもりでその小川に足をつけてみると、過去の記憶が揺り起こされて、切なくなったり、しんみりしたりして、「私はあれから、何をして生きてきたのだろう」と考え込んでしまう。どうやら物語の中にひそむ何かが、舞台裏でカサコソいたずらを仕掛けるらしい。

私が物語を読み進める時、その何者かはいつでも私の今と過去をつなぐ帯のあちこちを動き回っている。そして昔の体験をさらに濃い黒でぬりたくり、日々の燃えかすに再び火をつけて煽ったり、美しさをより鮮明にし、痛みをやわらげてくれたりする。いったい何が起こっているのだろう? 

そしてふと気づけば、つくりあげられた「物語」をたどっているはずなのに、私自身の人生が分解され、配列を変え、つなぎ合わされ、再構築されているような感じがすることもある。空想のメリー・ゴー・ラウンドを降りると、ふと「あの時のあれは、こういう意味だったのかもしれない」と、新しい視点で過去を解釈することができることもあるから不思議だ。

私たちの現実は、直接指でなぞるには時に熱すぎるし、痛すぎる。

でも自分とかけ離れた他人の人生、あるいは世界の出来事の連なりであるなら、それをじっと凝視し、ぴったり指を這わせることが出来る。物語の誰かの心の中に入り込むことによって、その人の考えていることが見える。自分自身の身に置き換え、ひとりの人間としてどう係わるべきかを思考することが出来る。

それらは胸の奥底に埋もれた大小さまざまな大きさとかたちの土くれを掘り起こして砕き、砂の中からきらきらと光るささやかな宝石を掬い上げて集めるような、ひそやかな振り返りの行為なのかもしれない。

物語を読み、もの想いにふける人にだけ、ひらかれる扉がきっとあるのだろうと私は思う。

「想いにふける」、”Speculate” という言葉はラテン語から来ていて、鏡を意味する “Speculam” ともつながっている ——ポール・オースターの小説を読んでいたら、そんなことが書いてあった。(『幽霊たち』)

物語に想いをはせるのは、鏡の中にいる自分自身を見つめることなのかもしれない。

そしてそれは、己の人生をふりかえることと、どこまでも深くつながっているのだ。

みずみずしい枝葉を広げた木々が光を集め、視界の端でゆれる。物語のそばにたたずんで窓の景色に想いをはせる時間が、心地よい一日をもっと心地よくする。

季節はすこしだけスピードをゆるめて流れている。ビルの影が新しい角度に伸びていることに気づき、初めて別のまなざしから私は世界を捉えたような気持ちになる。

世界という名前の物語が、ページをめくる一かたまりのそよ風になり、やさしく私の肘をつついてそっと耳打ちした。

「あなたの人生のタイトルを変えてみては?」と。





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