朝の光と、スプーン一杯の

僕はきみのことが好きだ。

髪をふりみだし、寝不足の目を真っ赤にさせて、いつ買ったかわからないくたびれた部屋着すがたで、僕たちの赤ちゃんを懸命に育ててくれているきみのことが好きだ。

「いろんなことがうまく出来ない」って、きみは悩んでいるみたいだけど、なんせ結婚して十年目の、初めての赤ちゃんだ。戸惑わないはずがない。

きみは会社ではいつだってエースだった。新人の離職率ナンバーワンの部署で、最初の業務マニュアルをつくったのはきみだった。同僚の外国人たちの揉めごとに割って入り、まとめるのもお手のもの。きみはなんでも最初から完璧に上手く出来た。まわりのみんなが嫉妬するくらい、そして僕もそのうちの一人だった。

きみは今日も困り顔をしている。どうやら先日の離乳食教室が上手くいかなかったみたいだ。赤ちゃんの食育について一時間くらい講義を受け、それからいざ調理実習というときに僕たちの赤ちゃんがぐずり始めたらしい。そのあとはずっと赤ちゃんをあやすのに夢中で、おかゆや野菜のかたさなんかの説明が、全く頭に入ってこなかったんだって。

15分だっておとなしくしていない乳児の大勢集まった教室で、一時間も講義するなんてどうかしてる! きみのせいじゃない。でも責任感の強いきみは、準備が完璧じゃなかったとかなんとか、そんなことも自分のせいにしてしまう。

「ねえ、これってヨーグルトに似てる?」

きみは出来上がったばかりのおかゆをスプーンですくい、僕の目の前にぽたぽたと垂らしてみせる。真面目なきみは、昨日から何度も試作品をつくっている。

「どうしたの?」

「はじめてのおかゆは、ヨーグルト状を目安にって、テキストに書いてあるの」

きみの作ったおかゆは、トロッと粘り気があって、ヨーグルトよりは、すこしかたいように見える。

「ちょっと、違うかも」

僕はありのままを言ったつもりだったけれど、しまった。きみの表情が一瞬曇った。

ふぎゃー、と赤ちゃんがベビーベッドで泣き始める。

僕の生まれ育った家では、朝食にかならずヨーグルトがあった。

コーヒー、トースト、そしてヨーグルト。特別なヨーグルトじゃない。どこのスーパーでも買える、ごく普通のヨーグルトだ。ふたつ違いの兄貴と僕は、そのヨーグルトに付いている専用の砂糖を取り合ってよく喧嘩になった。よくある普通の光景だ。

でも僕は知っている。きみの家には、その「普通」はなかったんだってこと。それどころか、朝ごはんがあればいい方だったんだろうってことは、結婚してすぐの正月に里帰りしてわかった。

僕たちは、もう、暫くきみの実家に帰ることはない。まあ、実家はここから500キロ以上離れているし、きみがそれで良いなら、そんなことはどうでもいい。きみの家族はここだ。僕たちの「普通」は(もしそんなものが必要な時があるなら)、僕たちでつくっていけばいいんだしさ。

それからこの時、もう一つわかったことがある。ごく一般的な人だと思っていた僕の母は、家族のことを深く愛していたんだってことだ。

翌朝、早起きしたきみは、スプーンにすくったヨーグルトを祈るように見つめていた。それは僕が深夜のコンビニで買ってきたヨーグルトだ。プレーンヨーグルトが売れ残っているのを見つけた時は、ほっと胸を撫で下ろした。

そして、今朝きみのつくったおかゆは、どうやら上出来らしい。

赤ちゃんはまだ眠っている。まろび出る前の蝶みたいに、かすかな呼吸をしながら。きみは気づいているだろうか、僕と赤ちゃんが二人きりでいる時、赤ちゃんはあんなにリラックスした表情にはならない。参ったな、僕はこれからもきみに嫉妬しつづけるんだろう。

きみが赤ちゃんのために作った初めてのごはんは、きっとおいしいに決まっている。ヨーグルトみたいにやわらかくやさしい、スプーン一杯の愛。思わず、おーい、はやくこの世界に起きておいでよ、と声をかけたくなるのを、僕はのみ込む。

のみ込んだ言葉の代わりに、「あのさ、」と僕はきみの肩に手を置く。すきとおる朝の光をたっぷり受けたヨーグルトが、テーブルの上で白くきらめいている。出勤まで、すこしだけ、まだ、時間がある。

きみの分は、はちみつをかけて、とびきり甘くしてあげよう。上白糖をそのままかけたって、けっこういけるんだぜ。これは兄貴に敗北した時に発見した食べ方なんだけど。

「なに?」

と、きみは化粧っ気のない顔で振り向いた。集中と緊張の表情。僕はその神聖さにすこしひるんで、一瞬何を言おうとしたのか忘れてしまう。でも、そのあと、ゆっくり、思い出す。

「ねえ、朝の光で、僕ら一緒にヨーグルトを食べよう」



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

サポート、メッセージ、本当にありがとうございます。いただいたメッセージは、永久保存。

今日あなたに、いいことがありますように。
27

my手帖

【エッセイ】日々の暮らしのなかで気づいたことを綴っていきます。
1つのマガジンに含まれています
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。