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Time is money.

本屋とコーヒーショップが一緒になったお店の奥に、期間限定の古本市があった。ふらふらと立ち寄り、なにげなく眺めていると一冊の辞書が目に留まった。

ぱっと開いたページには「ghost」の説明があった。「テレビの画像が二重、三重にぼやけること」と書いてある。

ghostは、幽霊じゃないの、と思って表紙をよく見ると『広告英語辞典』とあった。「広告、マーケティング、グラフィックアート、POP、写真、編集、印刷、製版、製本、用紙」…なるほど、専門用語の辞書なんだ。発行日は、昭和47年4月8日。

はしがきによると、その辞書は、昭和40年から『月刊ブレーン』に連載されたものをまとめてつくられたものだった。編集部が海外の文献を読む時、「普通の辞書では解明できない用語」にずいぶんと悩まされたから、そんな場面で便利なようにという考えが発端となって、連載を始めたと書いてある。

そのはしがきに、なんだか心をつかまれた。

「Aの部を書きはじめてしまった以上、Zまではなんとかしてでも続けなければならない。そんなわけで、まる4年間も連載が続いてしまった。完結が近づくにつれて、辞書にまとめる計画はないのかという読者からの問い合わせが多くなり、なかにはわざわざ激励の手紙を寄せてくださる方もいて、とうとう厚顔無恥にも辞書を出してみようかという気になった。

「ところが、辞書ということとなると4年間ていどの連載量では不十分だったし、だいいち連載をすこしでも早く終えて解放されたいという気持ちから故意に切捨ててきた項目もあったので、これらを加えて新たに数千項目を拾い直し、追加原稿の執筆にとりかかった。」

「連載をすこしでも早く終えて解放されたい」というところに本音を感じて私は笑いそうになった。このあたりから、どんどん愚痴っぽくなってくる。

「項目拾い、解説書き、分類、整理と、一人の人間の限られた力には追いきれない大仕事を雑誌編集の片手間にやらねばならなかったので、必然的に日曜も祭日も返上し、睡眠は毎日4時間、それでもたりなくて休暇をつぶし、せっせと書き続けて約1年、やっと原稿に漕ぎつけたというわけである。」

なんと人間味にあふれているんだろう。辞書の巻頭に胸をうたれたのははじめてかもしれない。決心してレジに持って行き、540円を払った。

以下、目に留まったものをランダムに挙げてみると(カッコ内は一般的な意味の和訳)、こんな感じ。

■Monk(修道僧)
「黒坊主。インキムラのために黒くつぶれた箇所」

■Proof(証拠)
「ゲラ」

■Cherry pie(チェリーパイ)
「普通ではやらない仕事をやって、テレビ出演者が特別にかせいだ金」

約50年前のビジネスマン、それも広告業界という「時代の最先端」で働いている人々の困惑している場面が、面白おかしく浮かんできた。「ギャラはCherry pieだったと書いてあるよ」「え。パイ?」なんていう誤解が実際にあったのだろうか。

コーヒーショップに入って、小一時間ほどじっくり読みふけった。

睡眠4時間、休日返上の著者の文句から始まるとはいえ、中身には仕事への愛がつまっているように感じられた。50年前の私たちも、仕事が好きなのに嫌いで、嫌いなのに好き、そんな間を行ったり来たりしながら懸命に働いてきたんだなあと思った。もしかしたら、文句というよりは謙遜なのかもしれない。「自分の大仕事を誇りに思う」と、大声で言いたいけど遠慮するのは、どの時代でもおなじだろうから。

インターネットで調べてみると、昭和47年の大卒初任給(平均)は48,600円だった。この本の定価は3,500円。それなりに高い辞書だったのだと思う。どんな人が使っていたんだろう。かっこいい仕事をしていたんだろうな。

たとえ高価なものでなくても「不必要なもの」を買うのはムダ遣いですよ、という価値観で育った。大人になってからも、「あなたの投資としての留学経験は、回収できていますか?」と人に問われてびっくりしたことがある。どうやら持っているものは、必要なものじゃないとダメらしい。

使うあてのない辞書は、やはりムダ遣いと言われてしまうのかもしれない。でも、なんというか、たとえば好きな人と食べるコーヒーとドーナツみたいに、目に見えるかたちにならない滋養というのはあると思う。目に見えないものは、けっこう大切だ。だって、結局それが言葉になり、音楽になり、絵になり、あらゆるすばらしいものになるのだから。

その時間に価値を感じられたなら、お金のムダ遣いなんて存在しないんじゃないかな。--"Time is money."



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『広告英語辞典』坂本 登 著/誠文堂新光社


ちょっと長くなりましたが、読んでくださってありがとうございました。英語と日本語について書かれたもの、特に辞書が好きです。役に立たないけどおもしろい辞書をいくつか持っています。またの機会にそれらも紹介できたらいいなと思います:)

#私のムダ遣い

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西平 麻依 /まいも

共著『でも、ふりかえれば甘ったるく』リトルプレス『アイスクリームならラムレーズン』ZINE『ロマンティックはつづく/Romantic Bites.』『ドリーミングガール・ダイアリーズ』 Web https://maimo.jp 連絡先 maimonote@gmail.com

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【エッセイ】日々の暮らしのなかで気づいたことを綴っていきます。

コメント2件

辞書を引くの好きだったなあと学生時代を思い出しました。その辞書、とても気になります
ゆるみな。さん、コメントありがとうございます^ ^ 辞書って、意外とおもしろいですよね。
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