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いい文章を書けと神さまが遣わした人

デパートで知らない人に声をかけられた。
アメジストのような色の、おしゃれなコートを羽織ったおばあさん。

「ねえ、申し訳ないのだけれど、もしお時間があればタイツを選んでいただけないかしら。私のために」

私はすこし驚いて、とまどいながら、もちろんですと答えた。向こうの方を見やると、手持ち無沙汰で足を交差させ、たたずんでいる店員さんが見えた。

なぜ私に…?、と一瞬考えたのが透けて見えたのか、おばあさんは言った。

「だってあなた、すてきだから」

すごい殺し文句だった。おばあさんは、その殺し文句にクラクラしている私にはお構いなしに続けた。「どれを選べばよいか分からなくて困るの。見る目のある人に選んでもらいたくって。」
そして、
「あなた、ほんとうにすてきだから」
とおだやかに繰り返した。

(ーーー素敵? ーー私が?)

その時私が着ていたのは、白いセーターとレースのスカートだけれど、オーバーサイズのコートに隠れて、中の服はほとんど見えないはずだった。靴は何の変哲もないバレエシューズで、タイツは黒の、コンビニでも手に入るような代物。

陳列は一目で全種類の色が見渡せるほど整理整頓されていて、あれこれと比較するのにはちょうどよかった。黒やグレイの暗い色は隅へ押しやられ、目立つところにはかろやかな春色が並んでいる。一緒に選んでいるようでいて、おばあさんの希望を聞き出すのに必死だ。

「前はこの色を買ったの」
「今日はリハビリの日でね」
「病院の待合室には雑誌がたーーっくさんあるの」
「子どもも孫もみんな男なのよ」

おばあさんは、とてもよく喋る。ああ良かった、変な宗教に誘われるというわけではなさそう。

最終的には明るい色と暗めの色の二択になった。私は明るい方を推した。おばあさんが最初にそれを手に取ったのを見逃さなかったからだ。

「明るい方がいいと思います。春ですから軽めに」
「じゃあ、こちらにするわ。ありがとう。本当に」

私は会釈をしてその場を後にした。無事に任務を完了して、ほっと胸をなでおろすような思いだった。振り返ると、おばあさんがレジへ向かっていくのが見えた。
 
辺りを見回すと、流行のスタイルに身を固めた、素敵な人ばかり闊歩している。きらびやかなデパートのショウウインドウでマネキンが身にまとっている服など、一枚だって私は持っていない。私の髪の毛先の色は抜けている。イヤリングも、人工宝石。

ほらやっぱり、たまたまそこに居合わせて、誰でもいいから誰かに、買うという行為の背中を押してもらいたかっただけなんじゃないか。「あなたすてきだから」なんて、話しかけるのに感触の良い言葉を使っただけなんじゃないか。

次々と浮かんでくる思いを押し留められず、いつしかガラス張りのビルに映る自分を見つめている。

時々、特に意味などないような出来事に、現実の層から引き剥がされるような、ふしぎな感触を得ることがある。妙に鮮やかに記憶に残るそれらに、私はなにかの意味を感じ取りたいといつも思う。

小川洋子さんのエッセイに「いい小説を書けと神さまが遣わした人」というものがある。

綴られるのは、小川さんが息子さんと一緒にガラス工場を訪れた時のエピソードだ。ガラスの織りなす幻想的な光や音の真ん中で、いきいきとガラスづくりを楽しむ小さな息子さんを眺めながら、創作の深い力について感じたことを小川さんは書かれている。そして村上春樹さんの「貧乏な叔母さん」の話を引きながらこう結ぶ。

村上春樹さんの小説に、貧乏な叔母さんが背中に張りついてしまう人の話がある。もしかしたらその人の感じも、私と同じふうじゃなかったか、と思う。ある朝、目覚めたら自分の後ろ側に何かが覆いかぶさっている。妙にバランスが崩れて物事がうまく運ばない。とにかく、昨日までとは何かが違うのだ。
息子の作ったコップとピッチャーは、口のところがくねくね曲がっている。それを見るたび、あの妙な感触がよみがえってくる。背中の人が、私にいい小説を書かせるため、神さまがお遣わしになった叔母さんならいいのに、とひそかに願っている。

小川さんと私のシチュエーションは全く違うけれど、ここで「背中に張りついた叔母さん」と表現されている現実を超えた存在を、私は知らないあのおばあさんの中にすこし重ね見ている。

日常の中で「知らない人と気軽に話す」機会は、考えてもみればそうあるものではない。買うものを相談するために、通りすがりの知らない人に話しかけた経験もない。だけど、それはいつだって(いいか悪いかは別として)言葉というものがある限り可能なことだ。何かにとらわれて自分にはできないと決めつけていることは、じつはたくさんあるんじゃないか。

そんな気づきと同時に、こんなふうにも思う。

私にも神さまが人をお遣わしになることがあると思いたい。

自分にはできないと思っているかもしれないけれど、あなたはちゃんと人を幸せにすることができるんだよ、まだまだやれるのだよ、と神さまが示してくれていると信じたい。

世の中の大勢からたった一人の結婚相手を見つけるように、あなたの書いたものを目に留め、よろこんでくれる人だってきっといるかもしれないよ、「だって私はそれを伝えるために"あなた"に話しかけたのだから」…、と、おばあさんが私に言ってくれたんじゃないかなと、なんとなくそんな気がしている。

ちょっと、おこがましいかな。かもしれないけれど。




引用:『深き心の底より』小川洋子/PHP文庫(2006年)

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