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コミュ力とかいう謎を考える


こんばんは みょーです。

コミュニケーションの得手不得手って何なのでしょうか。よく「コミュ力あるね~!」「そっすかあ~?」なんて会話を耳にしますが、そもそも“コミュ力”とかいう概念って、何をもって「ある」「ない」を決めているのでしょうか。




はじめに



少し話がずれたり調子に乗ったり心の狭い方の癇に障ったりする(そういうとこやぞ)かもしれませんが、僕は“コミュ力”がある方の人間です。

というのも、10代の僕は一部の変わり者にしか好かれない尖った人間でして、身近にいたコミュニケーションの塊みたいな明るいスケベ友人に憧れ続ける孤独な悲しき陰キャモンスターだったのです。


「他人とぶつかっても良いことはない」と友人の生き方から学んだ僕は、嫌われ者から脱却するべく自分の立ち振る舞いを改め、数年かけてコミュニケーションについて勉強しました。

そうして、趣味を通じて知り合ったヤンチャな兄さんと一週間くらい毎日遊んで共通の知人から「舎弟みたいっすね」と言われたり、高校時代の後輩から「別人のように丸くなりましたね」「やっぱりみょーさんは頼りになります」「ジジイ」と呼ばれるくらいに成長し、出会った人とすぐに打ち解けられるほどの“コミュ力”を身につけました。後輩は後で殴りました。


ただ、未だに人間関係における失敗はたくさんしていて、いつまで経っても人の気持ちなんて分かりません。むしろコミュニケーションについて理解が深まった今だからこそ、人の気持ちを理解することなんて不可能だと思うようになりました。

もしこの記事を読んでいる方の中に「私は他人の気持ちを慮ることができる」と自覚している方がいらっしゃれば、思い上がりも甚だしいので「私は図に乗ったブタです」と10回唱えて今週は水と塩だけを舐めて生きてください。


さてブタへの怒りが爆発する前に本題に入りますが、結局のところ“コミュ力”の正体って何なのでしょうか。僕は一行目と同じことを言っているのではないでしょうか。話がまとまっていないのに勢いで書き始めたからでしょうか。私は文章力のないブタです。

ブタなりにブヒブヒ考えてみるので、暇なブタ仲間がいらっしゃれば、どうかお付き合いください。ブッヒッヒ



まずは僕の“コミュ力”から考えてみます。僕の長所、僕が正しいと思うコミュニケーションをまとめ、それから「コミュ力とは何ぞ」に触れていきます。


コミュ力とかいう謎を考える



僕は自己中心的な性格です。いつも自分に得があるかどうかを忘れません。しかし周りからは「優しいね」と言われることが多いです。世の中ちょろいもんです。

なぜ優しいと思われるのか、ですが、僕は基本的に「情けは人のためならず」の精神のもと、他人に尽くすことを厭わず生きています。ことわざというのは古から伝わる究極のあるあるネタです。優しさを他人に分けると、驚くほどいいことが起きます。恩返しってやつです。具体的には忘れました(冷たい)


こんな僕ですが、他人に優しくする上で真面目に気をつけていることがあります。決して見返り前提で行動しないことです。見返りを求めるやつはブタです。そろそろ本当の豚に申し訳ないのでやめます。豚はかわいいしおいしいです。

誰にでも優しくするのはしんどいことです。「優しさは強さ」なんて言いますが、本当にそうだと実感することが多いです。


優しくされるのが当たり前と思い込む人や、優しさのやり取りに嫉妬する人、やり取りに入れないことを嘆いて八つ当たりする人までいます。

そんな人にいちいち優しくしても、得られるものなんてありません。「見返り前提で行動しない」というのは、人付き合いに汚い心を持ち込まないための戒め以外に、自分の厚意を無下にされて疲弊することを避けるための心の防衛策も兼ねています。


そんな心構え(もちろん会話術的なテクニック的な具体的なアレもありますけれども)があれば、すぐに「○○さんってコミュ力ありますね!」と言われることでしょうけれども、この“コミュ力”って何を指しているのか分からなくないですか?

たとえば「取引先と良い関係を作る」とか「上司の信頼を掴む」であったり、はたまた「顔が広い」とか「モテる」であったり、「盛り上げ上手」とか「聞き上手」とか「おしゃべりが上手い」とか。

いま書き連ねたことは全て違ったものですけれど、どこか繋がりがあるんじゃないかと思うのです。


じゃあどれが一番「コミュ力ありますね!」の“コミュ力”に近いのかというと、答えは絞られど、ひとつにはまとまらないような気がします。僕は「聞き上手」がベストだと思いますが、人によっては「顔が広い」だったり「おしゃべりが上手い」になるのではないでしょうか。

先ほど例に挙げたコミュ力とかいう謎の概念の候補たちには、「ここは違う」「こうだから当てはまらない」「こうだから正しい」「こうすれば正しい」といったような考える余地があります。そうなると、意見は分かれてしまいます。

そう考えたら、コミュニケーションの能力なんて形もないし答えもないし、こうやってうんうんブヒブヒ悩んでみても、最終的に「コミュニケーションは人それぞれですよ」という結論にするのが色々と丸く収まるのかなと思います。つまんねえの(過激派)



そもそも考えすぎだって?

他人の考え方について否定から入るのはコミュニケーションとして良くないですよ。はい論破。



最後に



「はい論破」の小学生感と拒絶感すごいわ。



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