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九天九地1:親の因果の発端は

この親にして

「積善の家に余慶あり」という言葉があるが、高島嘉右衛門こそまさしく、この言葉を体現した人物かもしれない。嘉右衛門は幼名を清三郎と言い、江戸三十間堀に、嘉兵衛の長男として誕生した。

清三郎の父、薬師寺嘉兵衛は、茨城県新治郡牛渡村の庄屋の次男として生まれたが、嘉右衛門を語るにあたって、この父親の存在を抜きにしては考えられない。
この嘉兵衛、高島嘉右衛門の父には、驚くべき逸話が残っているので、まずはそれについて語ってみよう。

ご承知と思うが、昔の次男、三男は肩身の狭いもので、家督相続の権利からは外され、冷や飯喰らいの身分。どっかの養子に行くのがセキの山、というミジメな立場の者が多いが、この嘉兵衛どのは違った。

21歳の時に江戸に飛び出し、遠州屋という材木商の手代を務めたが、向学心に富み、「論語」や「孟子」を愛読し、設計施工関連の知識も貪欲に吸収した。
お陰で、主家の商売は大いに繁盛、出入り先の大名屋敷のお歴々との交際も活発で、遠州屋はかなりの身代を築いたのである。

その甲斐あって、嘉兵衛は暖簾分けを許され、三十間堀に自らの店を構えて、遠州屋嘉兵衛を名乗った。
そして、嘉兵衛48歳の時に、嘉右衛門が生まれるのである。
嘉兵衛の材木商としての活躍には、数々の際立ったエピソードが伝えられている。
材木商というと、帳面の上でソロバンをはじいて、金勘定をしているイメージだ。しかし当時の商人というのは、士農工商の序列とは別に、それなりの実力とオトコ気を持っていなければ、大きな取引はなり立たなかった。何と言っても、古き良き日本のヤマトオノコである。
嘉右衛門の父、遠州屋嘉兵衛のエピソードを一つ紹介しよう。

困り果てております

清三郎が誕生して間もない、天保四年(1833)のことである。
遠州屋に、三人の武士が訪ねてきた。盛岡南部藩の勘定奉行、江戸御留役と用人という、藩中でも屈指の重要人物である。
嘉兵衛は何の用だろうと、小首を傾げながら衣服を改め、三人と相対した。

「実は、嘉兵衛どの…この江戸も昨年本年は夏とも思えぬ涼しさだったが、盛岡はまるで真冬の襲来も同然で、真夏に綿入れを着なければならなかった、というのだ。一面に厚い霜が降り、田畑の作物は全滅したとのこと…」

この時期は、新暦で言うなら八月半ば。酷暑の筈の時期に霜が降りては、大飢饉の発生は自明の理、南部藩の領民60万人が生死の境に追い込まれること、必定である。
「盛岡がそのような状態であれば、仙台、秋田、津軽などの近隣藩も、大同小異の惨状を呈している筈、近隣に救いを求める手立てはない。江戸に於いて、何らかの妙案はあるまいかと、殿よりご直筆のご書面なのだ。ご家老方と共に、我らが明方まで思慮相談を繰り返し、思いついたがそのほうのこと。そちならば機転機略、衆人の智恵にあらざることは我らが認めるところ。どうか、良い思案を建ててはくれまいか」

嘉兵衛はしばし腕組みをして考えこんだが、やがて一つの案を思いついた。
「大変な難問ではございますが、お国の非常事態でございます。私なりに、全力を挙げて取り組んでみることに致しましょう。とりあえず今のところは、お屋敷でお待ち下さいませ」

三人とも、頭を下げて両手をつき、まさに地獄に仏、という面持ちだった。
嘉兵衛は三人を送り出した後、すぐに駕籠を呼び、鍋島藩の江戸屋敷へ駆けつけた。

当時の鍋島藩主は鍋島直正、藩主となってまだ四年だが、名君の誉れ高い人物だった。

この時、直正は江戸出府中だったが、嘉兵衛は一介の出入り商人に過ぎない身分、めったに直々のお目通りはかなわない。彼は、用人の成富助左衛門に合って、先ほど聞いた南部藩の窮状を伝えた。

「なるほど、この時期に霜が降りるとは、わが藩では考えられないことだが、盛岡あたりでは、たまにそのようなこともあるのだろうな。心から同情申し上げる」

情けは形に

「有難き仰せ。そのお言葉には、盛岡藩のお三方も涙を流して喜ばれましょう。つきましてはこの際、そのお情けを形に表してはいただけますまいか」

「情けを形に表すとは?」

「ご当地のお殿様には常日頃、諸侯は一国一藩のことのみならず、日の本全体に目を配らねばならぬ、そうでなければ、外夷に対抗することは出来まい、と仰っておられるとのこと。お願いいたします。南部の民も鍋島の民も、同じ日の本の民でございます。万が一、鍋島藩に凶作飢饉のような事態が起これば、お国元も江戸表のお役人がたも、みな死力を尽くして領民の救出に当たられましょう。」

「つまり…情けを形に表すとは、当家の手持ち余剰米を、一部、南部藩へご融通申し上げろということか」

「はい、仏の教えにも、飢えたる者には、百万言の有難き説法よりも、まず一椀の粥を与えよ、とあります。もしこれが実現のくだりには、ご当家のご領民も南部藩の領民も声を揃えて、鍋島様はこの世の神か仏か、よくぞここまで日頃のお言葉を実行された、と感泣いたすでありましょう」

助左衛門はしばし考えていたが、何度かうなずいた。
「嘉兵衛、よくもここまで理路整然と、我らの泣きどころをついてきたな。しかし、これほどの大事となれば、わし一人のはからいというわけにはいかぬ。殿にもお話申し上げて、是非の返答をいたそう」

この備蓄米供出の件は、順調に進展をみせた。やや強引な感も無きにしもあらずだが、嘉兵衛の熱意に押されたのか、めでたく鍋島藩主の許可が下りることとなったのである。

切れ者藩主の計算

しかし、この決定にも経緯があった。
さすが、しっかり者の鍋島藩主、帳面を取り寄せた上で、国元の米の在庫を確認した。その上での話である。
鍋島藩側の計算では、盛岡付近の収穫は、たぶん豊作の年の三分目ぐらいは見込めるのではないか、と予測したのである。

盛岡家中は、突然の凶作に慌ててしまったが、普段から主食にしている稗、粟、楢や栃や海草を含めれば、全滅という訳ではないだろう。
であれば、鍋島藩からこれぐらい米を出せば、餓死者が出ることは無いのではないか、という計算を建てたのだ。

嘉兵衛は一瞬、ぎくりとした。世間では、大名と言えば、世間知らずの代名詞のようなものである。それが、九州から遠く離れた、盛岡藩の庶民の食生活まで把握しているとは…、さすが名君と謳われた人物である。
しかもである、この後がさすが、葉隠れの里の民と言うべきか、秀逸な部分と言うべきか。

「ところで、同席した重職が仰るには、降霜の報は早飛脚で大阪へも伝わって行くであろう。となれば、近々、米相場が暴騰すること必定。本来なら、その米相場を見定めてから、価格を見定めるのが当然だ。しかし、殿のお指図でもある、今回は、江戸の明日の相場で、三万石をお譲りしよう、ということである。異存はないか」

「はい、手前も商人のはしくれでございます。殿のお言葉に従い、目に見える当然の利鞘を見逃されるとは、感服つかまつりました」

「それで、国元より米を積んだ船の出航と同時に、総代金を頂きたい、ということだが、同意いただけるであろうな?」

「当然のことでございます。命にかけてもお約束いたします」

無い袖は振れぬ…

言い切って帰路についた嘉兵衛だった。
しかし、事はそう単純ではなかった。南部藩の面々はいったん、わずかな時間で話がついたことに感激したものの、代金支払い条件を聞いた途端に、顔色を変えた。

「待て待て、わしも勘定奉行として、当藩の財政はよく知っている。米三万石の代金となれば十万両を超えるが、それだけの現金をすぐに工面することは、出来かねる」

「手前としては、鍋島家へ命にかけて、とお約束して参りました。とにかく、米の現物をおさえることが最優先と考え、他のことは念頭になかったのですが、口約束とは言え、自分の言葉を守り抜くのは商人の道でございます。しかもですね…東北の大凶作の知らせが江戸大阪に伝わるのは、おそらく数日のうちでしょう。そうなれば、三万石の米の値段は、いったいどこまでハネ上がりましょうか。これは、破格に有利な条件での取り決め、と思われますが」

「それは分かっている。しかし、無い袖は振れぬ…」

九天九地2へ続く

九天九地1の音声ファイルは以下からダウンロードできます。

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