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『中論』7:恐怖症を論理学とベン図で解明・運動ー2

人間の行動の原因と目的



 我々人間の行動の原因と目的を分析すると過去から現在を経て未来に至るのであるが、その過程を龍樹は「〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れて〈現在去りつつあるもの〉(去時)も去らない。」と表現するのであるが、その表現は目的と原因が離れて(離反)いれば行動は起こらないと言っているのである。

 行動の目的にはそれを行う理由があり、理由とは過去の成功した経験とか失敗した苦い体験から生まれた動機にもとずきそれを達成するために目標が立てられ実行するのが行動であるとかんがえられる。

 そうすすると目的は過去の経験と無関係に生起することは無く過去の経験が原因(縁)で起こることから縁起と言われるのであるが、過去の経験と目標が離反対立していれば縁起と言われないのであり縁起のないところに行動は起こらないのである。

 行動の原因となる未来の目標は、過去の経験である原因が意志といわれ、その意志により起こる働きが行動であるから、原因から行動までの順序は過去の経験ーー未来の目標ーー現在の行動という、逆順(バックプロパゲーション・誤差逆伝播法)に時間がもどって働くことを行動というのである。

 たとえば100メートルを12秒で走ることを目標として練習を繰り返すことは、目標とする未来の結果を達成するがその差が0秒に成るまで時間的順序を逆順に現在に戻して、みらいの目標に達していなければ再び練習を行うことを繰り返すことを誤差逆伝播法と呼ぶのである。

 なお誤差逆伝播法の誤差とは目標12秒と現在の15秒との差を誤差といってその誤差が0秒になるまで繰り返すことである

 だから目標を達成しようとすることを「意志」と呼び「意志」に基づき行う働きを「行動」というのであるから過去の経験と目標と行動は不可分であり一体であると理解できる。

 だからベン図④を見れば中央の白い部分が(第二章の十四)で「すでに去ったもの」と「未だ去らないもの」と「現在去りつつあるもの」は同じ「はたらき」であり同じ法のしたにある行動であると龍樹は言うのである。

 ベン図④

 (第二章の四)
 
 ベン図⑤を見れば原因と目標が離れていて無関係であることが分かるのであるが、「〈去りつつあるもの〉に去るはたらき(去法)が有ると考える人」は「すでに去ったもの」と「未だ去らないもの」が離れていれば、「去りつつあるもの」は存在せず、去るはたらき(去法)もないから去 らないと解るのである。

 ベン図⑤
 


 

 (第二章の七)

 「去る主体」とはベン図④の「去りつつあるもの」の白い共通部分が「去る主体」であり、「もしも〈去る主体〉を離れては〈去る作用〉が成立しえない」とはベン図⑤のように「去りつつあるもの」が「去る主体」でありその「去りつつあるもの」が存在していないから「去る作用」が成立しえないのである。

 「去りつつあるもの」が「去る主体」であり、「去りつつあるもの」はベン図⑤から原因と目標の離反によって「去りつつあるもの」が生じていないから「去る主体」も生起せず「去る作用」も成立しないのである。

 原因と縁との関係と主客未分

 なにかの原因とは過去の恐怖の経験であることは理解できるのであるが、見ることが縁であることは考えたこともないかも知れない、縁とは意識していないと思われているが、見ることが聞くことが袖触れ合うことが縁であることを自覚して知ることが不可解な現象の解明に必要である。

 我々が一口にAは非Aである、自己は山である、自己は川であると言うが、西田幾多郎は「主客未分」といい山と一体というように、見ることは考えたり想像することより強力な心理作用を惹起するとは考えないかもしれないが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるように見ることがいかに強力なものであるかが解るのである。

 見ることは我々に安心を与える効果も強烈であるのであり、我々が百貨店で高級品を買って契約書にサインを済ませたが商品が届くのに数日かかると商品を眼の前に届くまでは安心できなことはないだろうか。

 梅干しを見ただけで唾液が出ることはよくしられていて、知らずのうちに心身に影響をあたえてのは、梅干しを見ることは梅干しと一体になることであり、禅者でなくとも主客未分の状態におかれているのである。

 仏教では何々が欲しいと考えることは所有心の現れだというが、考えることや想像するより見ることのほうがいかに強力な心理作用であるかが解るのであるが、もっと強烈な症例が高所恐怖症である。

三種の去るはたらきと見るは目標であり原因である

 (第二章の十四)で「すでに去ったもの」と「未だ去らないもの」と「現在去りつつあるもの」は同じ「はたらき」であるとは区別ができないのであるが、高所恐怖症の事例でも原因と行動と見えたものの三種の去るはたらきも区別ができないのである。  

ベン図⑥


 ベン図⑥崖っぷちに立ったのは「すでに去ったもの」であり谷が見えたのは「未だ去らないもの」であり、下を見る行為は「現在去りつつあるもの」である。

 ところが高所恐怖は原因と縁によって生じるのであるから谷が見えたことも去らないのであり、高所恐怖が生じている限り「すでに去ったもの」も「現在去りつつあるもの」去らないのであり、三種の去るはたらきも去らないから区別ができないのである。

 仔細に分析すれば高所恐怖は下を見る行為「現在去りつつあるもの」の時間的には直後に生じたのであるが、谷が見えた「未だ去らないもの」の直後に生じてもいると解釈することが出来るということは、見る行為と見えた結果は同時といえるのである。

 ということは「現在去りつつあるもの」と「未だ去らないもの」は同時と考えられるのであるから過去と現在と未来は同時であり、原因と行為と結果(見えたこと)は同時である。
 
 何かマジックのようであるが理論的にも実感的にも間違いはないのである。

 龍樹の『中論』はこの第一章と第二章の概念を基本に進められるのであるからこのマジック的表現から抜け出し陽動表現に目を覚まして対処することが必要である。

 龍樹の魔法から千何百年も解けなかった理由は龍樹の肯定的主張を否定的に解釈するからである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

参考文献
『中論』 ナーガールジュナ著 中村元訳 講談社学術文庫

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