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禅語を味わう...021:平原秋樹の色 沙麓暮鐘の声

平原秋樹色へいげんしゅうじゅのいろ 沙麓暮鐘聲さろくぼしょうのこえ


季節は、晩秋。
紅葉の美しい季節となりました。
恵林寺の周りでも、紅葉もいよいよ本格的になり、柿が見事に色づき始めました。

さて、今回の禅語は、以前にもご紹介しました、北宋の詩人、黄庭堅こうていけん(黄山谷こうさんこく1045~1105年)の名詩からです。

平原秋樹へいげんしゅうじゅの色
沙麓暮鐘さろくぼしょうこえ

平原へいげん」は中国「徳州」の昔の地名です。そして「沙麓さろく」も「徳州」と「ぎょう」との間の、古くからの地名です。

「平原」の地では、樹木の葉が一斉に秋の色に染まり、目を奪うような美しさ。
そして隣村の「沙麓」の方角からは、いつものように夕暮れ時の鐘をいているのでしょう、お寺の鐘の音が、遠く微かに響いてきます...
「平原秋樹の色 沙麓暮鐘の声」などと、当代屈指の詩人・黄山谷が歌うほどですから、「平原」は紅葉の名所として、「沙麓」は夕暮れの鐘の音の見事さで、その名をとどろかしていたことでしょう。

秋の紅葉は見事です。秋の夕暮れ、沈む夕日が橙色に山肌を照らすと、思い思いの色に自らを染め上げた秋の木の葉の一枚一枚が、ひときわき立ちます。
燃えるような赤、黄金色に輝く黄、夕日に照り映えて浮き立つようだいだい...
そしてそこに、静かで柔らかい鐘の音が、心の底にみ入るように響いてきます。

色とりどりの紅葉が目も鮮やかに拡がる景勝の地...
しかし、詩人が歌うこの景色は、不思議と名所景勝の地にありがちな、にぎわしさを感じさせません。それにはやはり「沙麓暮鐘の声」、遠くから静かに響いてくる鐘の音の存在が大きいのでしょう。

禅のお寺では、夕景になってお経を読み上げながらく鐘のことを「昏鐘こんしょう」といいます。どのお寺でも大体『観音経かんのんぎょう』を読誦どくじゅし、『四弘誓願しぐせいがん』をお唱えします。

劫石ごっせきは消する日有るも
洪音こうおんくる時無し

という禅語があります。
「劫石」とは、一辺の長さが一由旬いちゆじゅん(約七.四キロメートル)の固い巨石のことです。
百年に一度、天女が舞い降りてきて、その表面を「薄衣うすぎぬ」でそっとでる...
気が遠くなるほど永い年月、それを繰り返して、この巨石が摩滅まめつしてなくなってしまう時間を「一劫いちごう」といいます。
どんなに巨大で硬い岩であっても、いつかはすり減ってなくなってしまう。しかし、「洪音」つまりお寺の鐘の音は、絶対に尽きることがない...
迷い、悩み、苦しんでいる人が、一人でもいるのであれば、僧侶たちは修業を積み重ね、教えを説き、その人たちが救われますようにと、毎日、願いを込めて一心に鐘を撞くのです。その鐘の音は、絶対にやむことがない。
気が遠くなるほどの時間をかけて、「劫石」が摩滅し、いつかは無くなってしまうことがあろうとも、仏教の願い、祈りは一瞬たりとも途切れること無く未来永劫続く、いや、続かせなくてはならないのだ...
これは、まさしく「昏鐘」を撞いているときに唱える『四弘誓願』の心そのものなのです。

『四弘誓願』は、その第一に「衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど(迷い、苦しんでいる人がどれほどたくさんいようとも、誓ってそのすべてを救い尽くさずにはおきません)」とお唱えします。

静かなる 夕べのかねのきこえきて
見れば心の いけもにごらず

これは『恵林晩鐘えりんばんしょう』と題する、正二位・権大納言・外山前中納言光顕とやまさきのちゅうなごんみつあき(1652~1738年)の詠歌です。
恵林寺の「晩鐘」は、柳沢吉保公が発案し、吉里公がその遺志を受けて選定した『甲斐八景かいはっけい』の一つとなっています。
もともと「晩鐘」といえば『近江八景おうみはっけい』の「三井晩鐘みいばんしょう」が有名ですが、その向こうを張っての選定ですから、当時の恵林寺には、よほど見事な名鐘があったことでしょう。
三井寺つまり園城寺おんじょうじと言えば、武田家の古くからの菩提寺です。夢窓国師の作庭になる見事な庭園がある恵林寺を歌うとき、その庭園の美を歌うのではなく、「鐘の音」を取り上げるとは...
おそらくは、恵林寺と言えば、武田信玄公。
そして、武田家と言えば、園城寺。園城寺と言えば、鐘の音...
そんな連想が働き、恵林寺を詠むとき、敢えて「鐘の音」を取り上げたのではないか...そんな想像も働きます。

それはともかくとして、この『恵林晩鐘』も、詠うところは一つです。お寺の鐘の音を聞きながら、心静かに自分と向き合うとき、嫌なこと、心配なこと、腹立たしいこと、辛いこと、悔しいこと、恨みがましい思い...そうした心の迷い、雑念は、いつの間にかスッと消え去り、心の底の底まで澄み切っていく...
嫌なこと、辛いこと、不安、迷いが、綺麗さっぱりなくなってしまうのではないのです。私たちがこの世に生を受けて生きていく限りは、生きることの苦しみを避けることは、絶対にできません。

大切なのは、「見れば心の いけもにごらず」というところです。
澄み切った池の水は、どのようなものでも映します。抜けるような秋の青空も、鈍色にびいろ曇天どんてんも、ありのままに映し出して選り好みをしません。
私たちの心もまた、喜びも悲しみも、希望も絶望も、すべてをありのままに映し出すのです。怒り、悲しみ、不安、焦り、欲望...
自分の心の中を覗き込むとき、そこにはこうしたマイナスの心の働きですら、ありありと映し出されてくるのです。

しかし、何を映し出そうとも、澄み切った池の水そのものが変わることはありません。皎皎こうこうと輝く満月を映しても、池の水そのものが光を発するのではないように、どす黒い嵐の空を映していても、それは水そのものが濁っているのではないのです。
私たちの心も、それとまったく同じです。怒りも、不安も、焦りも、すべては心の面に映った姿にすぎません。
だから、毎日の暮らしの中で、時には嫌なこと辛いことが心をよぎることがある...よぎるどころか、そうした嫌な思いにとらわれて、身動きができなくなってしまう時がある。しかし、自分の心そのものは、決して濁りはしないのだ...そこをしっかりと掴んでいれば、心静かに、正面から自分の心に向き合うことができる。

夕暮れの鐘を撞く時には、祈りと願いを込めて、「衆生無辺誓願度(迷い、苦しんでいる人がどれほどたくさんいようとも、誓ってそのすべてを救い尽くさずにはおきません)」とお唱えします。たとえその鐘の音が遠くであっても、耳を澄ませている人の心には、必ず届くはずだ、と。
そして、祈りと願いを込めた鐘を撞くことは、決して僧侶だけに限られたことではありません。誰もがそうしなければならないことなのです。苦しんでいる人、悩んでいる人、困っている人はたくさんいます。自分一人の力は小さいけれども、決してあきらめない。ささやかでも誤魔化さないで頑張る。ここから本当の祈り、本当の願いが生まれるのです。
私たち一人一人がそうした思いを持って、励まし合いながら頑張るとき、静かな夕べの鐘の音は、隣村からだけではありません。
一つ一つの音は小さく微かかもしれませんが、それこそ、あらゆるところから聴こえてくるはずです。これが本当の、平原秋樹の色 沙麓暮鐘の聲なのです。

秋の夕暮れのお寺の鐘の音を聞きながら、私たちの心の鐘もしっかりと鳴らしていきたいものです。

写真:工藤 憲二 氏

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