ラジオをやった/やりたい #2

話しことばがすきである。なんでかしらんがすきである。

もちろん書かれたものだって読むのはすきなのだけれども、と書いているいま、これ自体がキーボードを叩いて文字を打ち込んでいることそのものなので、そうなるとなんとも言い難いけれども、少なくとも話しことばが、特に会話によって連なっていくとき、そこには書かれたものを読むときとはまた違った感触があって、それを楽しいものとしてうけとることができる。ひとりで書面を作り上げるのともちがうし、もしくは往復書簡のようにして人まとまりの文章がいったりきたりするのともちがって、特に会話にあってはその流れというか、それがはじまってからどこか、なにかしらのまとまりができて、「会話が締まりましたね」という感じになるまでのあいだがとてもスリリングである。横道にそれたり、ジャンプしたり、一歩進んだと思ったら二歩下がるし、ときには話の内容をど忘れしてしまって、踏み出した足の足場がなくなってしまって、すってんころりん転けてしまったりする。推敲がなく、代わりに言い間違いがある。情報に過不足があって不完全であって、そういうのがなんでかしらんがすきである。

ええところは、「語り手」と「聞き手」がうまいこと共存できるところなのやとおもう。話題があって、それはしばしば、ラジオとしてプログラムを組むとテーマとして用意されるもんであって、それについて語る人と聞く人が同時にいようとすると、これがおそらく、手紙のやり取りではうまくいかない。手紙では相槌が打てない。

相槌にはたぶん交通整理をする作用があって、うんうん、といえば青信号であるから横断歩道を突っ切ってそのまま進め、であるし、うん?であれば赤信号で、いちど質問なり反論なりで、交差点を横切る側に通行の権利をよこしてもらうことになる。信号の人と自動車を運転する人が入れ替わって、そうして互いに交通整理をすることでどうにかこうにか歩みをすすめることができて、そういうのを繰り返していると最後にはふたりとも予想していなかった、ようわからんところに出てしまうことがあり、しかしこのあたりはなんだか景色がええのんで、ここらでいちど休憩にしましょうか、としてその話題を片付けることができるものと思っている。

交通社会であるから、信号が出ていないところで立ち止まることができないというのもある。5秒黙れば放送事故であるから、ついさっきの発言の根拠や統計的データを引っ張ってくる暇もなくて、「ひとまずさっき言ったそれは本当、ということにしましょう」と互いに足場の不安定さを一度仮に認めた上で、理屈というか、いわゆる「話の筋」という不確かな、もしかすれば多分に誤謬を含む可能性を持ったナビゲーションにそって、互いにことばを積み上げていかないといけないのだけれども、そのせいでちょくちょく極論や、突飛な例えや、過言があったりして、会話を取り囲む一種の熱狂から醒めて、しらふになって考えてみると突っ込みどころしかな異様なことであったりするのだけども、わたしらはそれでも、そういったのををあえて前向きに評価しようとするとき「イーエテミョー」と鳴く。

こういった、イーエテミョーの遊びがしたいと思ったんで、折角であればそれをラジオみたいにしておこうかなと思ったんであった。さきも言ったように、会話というのは多かれ少なかれなにかしらの熱狂というか酔狂というか、アルコールは入っていなくてもその場にある何かしらに酔っ払った状態で行われるもののような気がしていて、わたしがしばしば「おたくたちの飲み会の議事録をとっておきたい」というのはこういったことである。何かしらに入れ込むあまりそこに普遍的な「世界の真理」じみたものを見出したおたくが放つ極論こそ「イーエテミョー」であり、ラジオと言うのんはそれが生み出されうる豊かな土壌なんではないかなと思っている。いろんなおたくとひととおり酔っ払ってみたいとひそかにおもうものである。うそ、けっこう大々的に言っています。

最近「ゲームさんぽ」、ええなあと思うのはまさにそういうところな気がする。(つづきます)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?