24時間戦えねえよという話

今日は。今日は何ですか?これは百合 Advent Calendar 2019 22日目の記事ですが、あなたは百合 Advent Calendar 2019 22日目の記事ではありません。

人類が勝手に定めた暦の上では2019年が勝手に終わろうとしていますが、これを読んでいるモニターの前の皆様はいかがお過ごしでしょうか。お元気にしていますでしょうか。元気じゃなくてもいいですよ。実際にわたしも元気ではありません。24時間戦えませんし、戦うのは辛いことです。

「やがて君になる」が終わりました

ここ数年に渡って百合読者たちを賑わしつづけてきた一つの作品である、「やがて君になる」が終わったことは皆様の記憶にも新しいでしょう。2015年10月27日に単行本の1巻が発売になってからの4年と1ヶ月ものあいだ、その殆どの時間を彼女たちは高校生として過ごしました。わたしたちはその間何をしていたでしょうか。高校生だった人は大学生になったかもしれませんし、大学生だった人も社会に出たかもしれません、もしくは社会に出ることができずに人生がほんのり遠回りの様相を呈し始めているかもしれません。わたしはその両方でしたが。もしくは社会人だった人だって、もしかしたら主任に昇格しているかもしれませんし、とにかくわたしたちは、彼女たちとはちがう時空を体験しています。朝目を覚まし、重い体を引きずり起こし、昨日の残り物のカレーを朝ごはんにし、案の定カレーが思ったより胃もたれを引き起こし、電車の中でやや具合を悪くしつつ、どうにかたどり着いた机に突っ伏して、しばらくしてやっと今日の作業が始まる、そういった時空にわたしたちは生きています。作中、現代日本の一般的な女子高校生として描かれる彼女たちも、ほんとうは、作中の時間内で毎日目を覚ましては、寝室からでて板張りの廊下と階段を下って洗面所まで歩いていき、ヘアバンドで前髪を上げてから顔を洗い、化粧水をはたいてから乳液で蓋をし、朝ごはんを食べたり抜いたりして、遠見東高校の制服に着替え、家を出る、ということを、すくなくとも8巻の途中までは100回以上繰り返しているはずです。しかしわたしたちはそれを目撃していません。

日々を編纂する

さきほど、わたしたちの時空で毎朝おそらく起きているであろうことをさっと書いたものを、皆様は何秒程度でお読みになったでしょうか。書いたことを実際に行おうとすれば少なくとも3時間ほど見積もってしかるべきでしょう。また、カレーの中に何が入っていたかだとか、カレーを食べたあとに歯を磨いたかだとか、そのときに使った歯ブラシと歯磨き粉がどういうものであったかだとか、そういったことは記述されていませんし、記述されていなかったことにわたしたちは違和感を持ちません。

人間がなにかを書いたり、描いたり、喋ったり、そういった行為をするとき、必ず語られなかったことが存在しています。七海燈子の鼻の穴がどんな形をしていたか、一巻で佐伯沙弥香が小糸侑に手渡した応援演説の原稿になにが書かれていたか、八巻168ページから171ページの間に何が起こったかは一切語られないまま、171ページには「毎日は途切れることなく続き」と書かれます。また、同じページは「人生に区切りはない」から始まりますが、しかしわたしたちは小糸侑という人物が自然分娩で生まれたのか帝王切開で生まれたのか、死因はなんだったのか、病死か変死か寿命なのか、もしくはどこで葬儀が執り行われたのかといったことを知ることはなく、ただ彼女の人生の一角の、さらに「語られた部分」についてしか読むことができていません。

創作であれノンフィクションであれ、もしくは定性調査によってデータを取るときであれ、何らかの手段をもって情報を取り扱おうとするとき、それはペンによって、「そこにあったこと」を区切り、切り出し、それ以外を削ぎ落として闇の中に伏せておく行為であることから逃れることはできません。

何らかの意図に沿って日々を編纂することによってものがたりは成り立っています。

「関係に関係ある」

編纂にはテーマが必要ですし、良い編纂はテーマに寄与する・関係のある情報が過不足なく編まれている状態であるということができるでしょう。「やがて君になる」の時空で起こったあらゆることから何を切り出し、何を捨てるのか、を選別する上でのテーマは、おそらくざっくり「小糸侑と七海燈子の関係と、その変化」といったことばにまとめることができるかと思います。小糸侑がどのような人間であったか、七海燈子がどのような人間であったか。ふたりはいかにして出会い、どのような動機をもってどういった口調でどういったことばを発し、それはどういった意味で受け取られ、次の心の動きを生み出したか。二人をとりまくどういった人間がその関係に干渉したか。そのうち、何がテーマに寄与するか・致命的であったかというところにもとづいて、この物語は語られ、そして同時に語られずにいます。佐伯沙弥香について語られなかった部分は、別途入間人間が「佐伯沙弥香について」というとてもわかり易い題で語っていますので、読むように。

ある時期以降の七海燈子と小糸侑の関係を「恋愛関係」と呼ぶことに反論する人はほぼいないはずです。よって、その時期からは言わずもがな、恋愛感情にまつわる描写・記述がかなり多くなってきます。「好き」という感情とはなんなのか、それを向けられることにたいしてどう思っているか、「好き」を向けられることを快く思わない相手に対して「好き」を向けるとどうなることが予見されるか、それは自分にとって望ましいことか、しかし言いたいことをいつまでも出せずにいるというのも不本意極まりなく、板挟みで苦しいではないか。などなど、そういったものが多く語られ、そうでないものが語られる機会は少なくなり、よってわたしたちはまるで彼女たちを「恋愛ばかりしている人」のように見てしまうことになりかねません。

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▲編纂は必然的に「じっさいにあったこと」から人に与える印象のズレを生み出します

マヂ辛い、病む。。。

ところでわたしは「新明解国語辞典」の「恋愛」の項が好きなので三省堂の本社がある神保町の方を向いて毎日決まった時間にお祈りをしながら以下の文言を唱えています。

「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」

以上は第7版のもので、「異性」の部分は多少気になったりしなくはないのですが、とにかく恋愛感情の厄介なところが全開です。「恋はスリル、ショック、サスペンス」とはいうものの、スリルもショックもサスペンスも、当事者からすればダイ・ハードな環境であることに違いありません。めちゃめちゃツラいのです。四六時中そんな環境にいれば常人は精神を病んでしまいます。

非常に不安定な精神状態に身を置くことである恋愛をメインテーマとして取り扱う作品にメンタルヘルスの不健康さはつきものです。自らのうちにある大いなる欲動がフラストレートされ、大きなストレスを受けている状態の描写がトゥーマッチになってしまうと、どうしてもその人の精神状態が心配になってしまう。「やがて君になる」作中では、七海燈子という非常に面倒くさく、倫理的でない振る舞いをする人に対して、小糸侑が非常に大きなフラストレーションを感じる部分が度々登場します。

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▲本当に救いがたいほどのばかだとおもう。反省するよう。

百合作品でなく申し訳ないのですが、「クズの本懐」などではこの傾向がさらに顕著で、精神的ストレスを受けているシーンに徹底的にフォーカスした作りになっているため、ときおりその不健康さが痛々しくて見ていられない時がありました。あれはあれで面白かったんですが。

「今週末は実家に帰ってオカンと餃子でも包んできなさいよ」/小糸侑はいかにして生き延びたか

さきほど「良い編纂はテーマに寄与する・関係のある情報が過不足なく編まれている状態」と書きましたが、なにをもって「テーマに寄与する」かというのは広く捉える必要がありそうです。

「今週末は実家に帰ってオカンと餃子でも包んできなさいよ」というのは先程の「クズの本懐」を見ているときに何度か思ったことなのですが、一見お話のメインテーマに全く関係のないようなエピソードも、「語られてはいないこと」がその裏に豊かにあることを示すことによって、物語の肌触りを整えてくれる作用を持つことがあります。

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さいわい小糸侑はいい姉を持っていたし、読書や運動を趣味としていたことがほんのり示されていたことで、恋愛の不健康さから目をそらす機会が、語られてはないけれども確かにあったことを、わたしたちは察することができます。なんであれば本作品のMVPは小糸怜だったとまで思っていたところまである。「怜」の字は聡明さと慈しみを表しますが、彼女はその名に恥じぬ役割を作中で果たしていたのです(「侑」「燈子」「澪」をはじめ、本作品の登場人物はその名から「役割」を察する事ができる人が多く登場します。彼女たちは各々遠見で生活していて、「役割」というのも編纂を行う上で我々のエゴが過度に出たことばなのですが、それはそれ)。「やがて君になる」が編纂された日々たる物語として優れていたのは、わりとこのバランス感覚にあったのではないかとおもう次第です。

なにはともあれ、みな24時間戦っていたわけではなかったのです。よかったよかった。

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