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自分の想いを作詞していきたい

歌で想いを伝えていきたいな、と思っています。

というより、歌であれば、何でも許される感じがあって。

「これはあくまで、歌ですから」と。

中二病っぽいこと言ってても、「いや、歌ですし。」とか。

……ということがあったときに、ああ、歌って、音楽って、いちばん懐の深いものなんじゃないかなって思って。すべてをうけいれる・うけとめる海のような。もうまさに海王星&魚みというかね。慈悲だなっておもった。

そして、「別に伝わらなくてもいい」というところがある。

歌として受け取って楽しんでくれれば、それで万々歳じゃないかと。

私って本当「理解してほしい」「根底の深いところから全部ぜんぶ知ってほしい」って気持ちが、強すぎるんだと思う。だから絶望したり、打ちのめされてしまう。

でも数年前に「ああ、そもそもそっくりそのまま全部が伝わることなんて不可能なんだ」と気づいたときに、ある意味楽になった。ふっと憑き物が落ちたように。私が求めている「理解」や「伝わる」は、テレパシーが存在しない限り不可能だわ、と。

※しかし、ホニャララLIVE #10を見た時に「あ、きっと数百年後には、ある種のテレパシー的伝達手段があたりまえになっているんだろうな。」って思ったりした。電話もインターネットも、300年前の人からすれば、荒唐無稽な魔法にしか思えないのと同じように。今から300年後の当たり前は、今の私達からは想像もできない、「魔法」としか思えないものに違いない。(まあ、文明崩壊して逆に更地になってるかもしれんけど。そうすると今の私達の技術がオーパーツ的に思われることになるわけで、それはそれでおもろい。いつもひたすらこういう妄想して楽しんでる)

うーん。すぐに話が逸れてしまいます。

うーんと、じゃあまあ、当初書こうとしてたことじゃないけど、この話をしよう。

歌だと、ほんとは全然違うのに、なぜか共感できちゃうというミラクルが起きるところがいい。それによって心から救われることが起こることが。

最近の話で言うと、パリピ孔明8話『Time Capsule』という曲は、英子がただただ自分の個人的な想いをつづったものなのに、それは、おどろくほど小林オーナーの人生とシンクロした。最初から小林オーナーの人生の歌をつくろうとしたかのように。

歌にはそういうことがあるし、それが歌がもたらす最上の奇跡で。

「これは自分のためにつくられたものだ」というおおきな勘違いで救われることができる。

(まあ、歌に限らず、文学はじめとした創作一般がそういうものだよね。映像作品でいえば私は、映画『聲の形』がまさにそれで、涙がほんとうに止まらなかった)

そして私も。

2021年から2022年にかけて、本当につらくて。

そんなときに、改めて聴いた『Super Driver』が。びっくりするほど、一言一句たがわないくらい、そうだよね!!!!!ねえ!!!!!ってなって。作詞の畑亜貴さんに一体何があったの、畑さんもこんな思いにさいなまれたの??って。もちろん作詞が100%そのひとのことではないにしても、それが創作できるくらいの素材となる経験には触れたということで。

「ああ、私だけじゃない」
「どこかの誰かも、同じ悩みや苦しみを持ちながら」
「それを歌にすることで」
「歌という大海に、悲しみのひとしずくをうけとめてもらって」
「涙をぬぐいながら、鬱憤をたたきつけながら」
「でもそれはすばらしい音楽として昇華されて」

って。

さらには、『Silly-Go-Round』と、『瞳の欠片』にも。ああ、これらの歌って、こういうことを歌っていた歌だったんだって、初めて深い理解が得られて。もう何十年も前から何百回も聴いて歌ってきた曲であったにもかかわらず。こういう想いの歌だったのだと、初めて気づいて、それが今の自分のきもちとあまりにもぴったりすぎて、あまりのタイミングでライブで生歌として聴くことになったりもして、泣いて、泣いて。

そして。

Wakanaさんの『翼』。

これはもう間違いなく、明らかに、彼女自身のソロ活動の出立の心持ちを歌ったもので。初めて聴いたときは、こ、ここまで露骨に!? って、ちょっと後ずさりしちゃうくらい、心配になっちゃうくらい、恐怖を感じるくらいの、凄みを感じた。そんな曲で。あくまでも、観客・第三者の視点で、この歌を受け取っていた。

でも、その数年後、私もこの曲と全く同じ心境になって。

もうあえてこの歌を歌い上げなきゃ、進めない。ってなって。

決意と、決別と、孤独と、冷たさと。

ああ、だからきっとあの時の彼女も、そのくらいの覚悟だったんだ、っていうのがわかって。(もう、この「わかった」などと思っていること自体があまりにも傲慢の思い上がりの勘違いではあるんだけど)

だから、私も、このとき、本当にこの曲に救われて。

でもたぶん、本来この曲は、きっと、ソロデビューの瞬間の彼女が彼女を支えるために作った、とても個人的な曲であろうと思う。

でも、そんな「自分のため」に綴った言葉が、時を越えて、こんなにも他者である私を、まるでその瞬間のわたしのために仕立て上げられた完全オーダーメイドの服のように、心を救ってくれる、そういうことが起こる。歌には。言葉には。

Lisaさんの『往け』もほんとうにそれだった。


これが、星野源さん言うところのワームホールなんだろうと思う。



だから私も、完全にただただ自分のために、自分を救うためだけにつくった歌が、綴った言葉が、1000年後でいい、たった一人でいい、たった一度でいい、ものすごい絶望のふちにいるひとを、光の速度ですくい上げるような、そんな作品うたを遺して逝きたい。

君に届く? 僕が届く?
絶望の甘さ打ち砕いて走り出すんだ 今すぐ
螺旋せかいの果てまで

I'm calling 遠く足掻く僕の唄が
君の頬を空に向けられたら
独りじゃない……

Kalafina『sprinter』より


この曲は私のデビュー曲です。
誰かを励ますために作った曲ではなくて、自分が自分を愛せるように、欠けてても、足りなくても、そんな自分を認められるように、そんな気持ちで作りました。
誰かを励ますために作ったわけじゃないけど、でも、この曲が、この動画が、御守りになったらいいなと思います。

さユり – ミカヅキ / THE FIRST TAKE より

すごい歌がつくりたいわけじゃない。
ヒット飛ばしたいわけでも再生数稼ぎたいわけでもない。
ただ、ただ、「届いた」ことが、欲しい。

想像が現実を凌駕して、重く垂れた雲が散った
その景色を遺せたなら
千年後の知らない誰かの目に、僕の声が突き刺さるような
鮮やかな色、それはまだ名前のない色

神様、僕は気づいてしまった 『名前のない青』

それすらも、あまりにもたいそれた願いだけど。

それすらも、もう望まなくたっていいかって思い始めてるけど。


そもそも高望みがすぎるのもすごくわかってるんだけど、でも、冥王星蠍座世代のどうしようもない欲求ってこれじゃないのかなぁって思ったりもしている。知らんけど。


さっきまで、700文字くらいで、1000文字にならないくらいで投稿するかっておもってたのに、ふと見たら2769文字だって。擱筆。


追記
ああ、本当に、こういうことを書いていると、なんで私が姉田ウ夢ヤさんの「シンクロ」という曲に、あんなにも心惹かれたのか、わかるよねえ。私自身の心の叫びそのものの歌だったの。シンクロしたの。シンクロしたから、応えたの。しあわせな経験だったなあ。


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