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僕と「きらめき」の話

こんにちは!始めまして!

今日は僕がいつもいつも使っている「きらめき」という言葉について話をしたいと思います。

「きらめき」に辿り着くまで

僕が「きらめき」を使いだしたのは約二年前、大学3年生の時でした。

それまでの僕の写真は先人達が見つけた写真スポットで決められたきれいな写真を撮るという撮影スタイルで、今となると芸術というよりひたすら模倣、美しさの正解へ向かった写真の楽しみ方をしていたと思います。

しかし大学三年生の春が過ぎた頃からこれまでとは違った方向に自分の写真が向かってきているという意識と、その当時からとんでもない勢いで日本の写真界を揺るがしていた「東京カメラ部」の写真への違和感が芽生え始めました。

自分の写真は一体何なんだろう?
他の人と何が違うんだろう?

そんな疑問の言語化の過程で生まれたのが僕の中の「きらめき」という言葉です。

風景を撮っているけど、みんなと少し違う、一体何に惹かれているんだろう…そう考えているうちに思いついたのが「きらめき」でした。



「きらめき」とは何か

3月にピクトリコショップ&ギャラリー表参道さんで個展を行ったときの文章を読み解くことで僕の中の「きらめき」の意味が見えてきます。

世界はとんでもなく美しい光で満ちている
春夏秋冬駆け巡る季節の中で
ふとした瞬間に思い知らされる

この世界のきらめき、光たちを捕まえたい
その一心で様々な場所、場面、時間で
シャッターを押し続けてきた

これらの写真は僕が運よく捕まえた
そんな光たち


今思い起こしても本当に恥ずかしくなるほどに赤裸々な文章です……
しかしこれが僕の中の「きらめき」を上手く表した文章です。

まず前段
「世界は〜思い知らされる」までの3行について
ここからわかることは
✴世界がメッチャクチャ美しいってこと
✴僕はその美しさを巡る季節の中で繰り返し思い知らされている
この2点
まず僕はこの世界、自然というものの存在を無条件に美しく捉えている。
そしてその美しさを何度も何度も世界の側から思い知らされているということだ。世界の美しさはある意味雨のように僕へ降り注いでいるのだ。

そして中段
「この世界〜押し続けてきた」について
ここからは
✴「きらめき」は「捕まえる」ものである
✴「きらめき」に「場所」「場面」「時間」は関係がない
以上の2点が見えてくる
僕はシャッターを切ることで「きらめき」を捕まえる存在であり、「きらめき」は僕の外部に存在する世界である。そして「きらめき」には場所性、場面性、時間制等の制約条件はなくこの世界に存在するものである。この制約条件のなさについては個展においても撮影情報や題名をつけないままで展示するという僕のスタンスにも現れている。

最後に後段
「これら〜光たち」について
ここからは
✴「きらめき」は光たちを表す概念であること
✴「きらめき」は運良く捕まえられる(撮影される)ものであること
以上の2点がわかる。

僕の中の「きらめき」とはこの世界に散らばる美しい光の総体を表す概念で、それは狙えば撮れるというよりもむしろ運よく、突然に現れて撮影できるものであるということがわかる。ここからは通常の(三脚で狙った時を撮る)風景写真とは少し違った風景のスナップのような僕の「きらめき」との関わり方が見えてくる。

「きらめき」についてのまとめ

「きらめき」はこの世界にあふれる美しい光のすべてのことである。なんて言ってしまうと突拍子もないが簡単に言えば、僕らがふと心を動かされるこの世界に散らばった美しき光たちのことである。

僕はこれからも独自の切り口でこの「きらめき」を捕まえ続けてみなさんに見せることができたらいいなと思ってます。この世界には「きらめき」が溢れていて、それはぜんっぜん特別なものじゃない、「きらめき」は僕らのすぐそばにあるってことを見せていきたいと思っています。

書いておこう!と思って一気に書ききったnoteであり初のnoteだがなんというかとてもとても赤裸々な内容になってしまってとても恥ずかしい…

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