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境界を越えるバス/旧国境編2/横須賀街道天神尾根切通

武蔵/相模旧国境編その2
2022/06/05初版公開
2022/08/19追加改訂
本文中のデータは、特記無き限り2022年6月時点のものです。
また、画像は、特記無き限り、著者が撮影したものです。

境界を越えるバスシリーズ第3弾は、前回に引き続き、武蔵と相模の旧国境です。古くからの街道で、明治時代以来の国道が通る切り通しなのですが、名前がついていない場所です。バスの本数も非常に多いです。

場所

武蔵・相模国境と天神尾根の概略位置(ベースの白地図は freemap.jp より)。
色々考えた結果、国境がテーマなので、市境は省略しました。
実は国境が横浜市の中を縦断しているのですが、それについては別記事で。

 武蔵・相模の旧国境のうち、現代にて横浜・横須賀の市境となっている部分は、基本的に分水嶺になっており、天神尾根という名称がついている。この分水嶺を横須賀街道(国道16号線)が切り通しで越えているポイントが、今回紹介する場所である。この辺りの尾根筋はかなり明瞭で切り通しも大規模なものになっているが、明確な名称が付けられていない。京浜急行電鉄の本線も、国道16号線に寄り添うようにこの切り通しを抜けている。付近には、国境に古くから設置されていた傍示堂石塔群がある。また、切り通しから横須賀方向に少し進んだ場所に雷神社が古くから存在する。

天神尾根切り通し付近の拡大概念図。
縮尺とかはいい加減ですので要注意。
国境=市境の全景。国道16号線に京急本線も並走する。
天神尾根の断面。
武蔵国側から相模国側を望む。
京急本線上の横浜・横須賀市境標。

 この切り通しを抜ける国道16号線を走るバスの本数は非常に多く、何れも京浜急行バスによる運行である。磯子駅から金沢文庫駅を経て追浜駅から追浜車庫を結ぶ"4"系統、内川橋から追浜駅経由でJR横須賀駅・京急横須賀中央駅へ向かいその先の安浦2丁目まで行く"八34"系統、同じく内川橋から追浜駅経由で新興住宅街である湘南鷹取方面を結ぶ"追1 / 追5"系統が主な系統となる。この他に少数運転系統があり、全部合わせると片道毎時10本以上ものバスがこの切り通しを抜けていく。

相模国から武蔵国に入るバス。
武蔵国から相模国へ。
複数の路線が続行運転になる場合もある。

旧国境付近の道路とバス路線

 旧国境を跨ぐ国道16号線は、この付近は横須賀街道と呼ばれ、片側2車線の広い道である。横浜と横須賀を結ぶ明治時代からの国道である。それ以前の江戸時代には、江戸湾に出入りする船舶を監視する浦賀奉行へ向かう脇往還があり、浦賀道と呼ばれていた。
 ちょうど境界付近にある和田山入口交差点にて、海岸方向から来た市道がぶつかってT字路となっている。この道は片側1車線で、市境=旧国境の尾根(天神尾根)を辿っている。横浜市道なのか横須賀市道なのかは未調査である。海岸付近の尾根末端部は大規模に切り開かれて宅地になっているので、車道は一旦横浜市側に尾根から外れた後、宅地造成でできた崖をトラバースするような形で横須賀市側に降りる。崖となっている区間も、旧国境沿いに階段となった歩道が設けられており、崖の中腹で上述した車道を横切っている。ただし、調査時点(2021年10月)では車道より下方は通行止になっていた。

天神尾根の上を行く道。
左側が横浜市金沢区=武蔵国、右側が横須賀市=相模国。
この写真では右側が横浜市。
この先坂を下ると和田山入口交差点。
天神尾根末端部。
中央右側の建物はぎりぎり武蔵国=横浜市金沢区。

 なお、国道16号線よりも内陸側には、横浜市側と横須賀市側を結ぶ自動車が通り抜けられる車道は存在しない。海岸側も、旧国境を行く市道が尾根上を走る区間には、両市側とも通り抜け可能な車道は存在しない。尾根を外れた箇所で横浜市側へ抜ける路地を分け、下り切った地点で横浜市側と横須賀市側を結ぶ道に接続する。一応往復2車線の道だが、その先の接続なども考えると、幹線道路と呼ぶには少し難しい。従って、幹線道路と呼べるような道は、夕照橋がつながる海岸沿いの道まで存在しない。横浜市と横須賀市を自動車で行き来できる幹線道路は、三浦半島中央部を抜ける有料道路『横浜横須賀道路』を除くと、実質的に2本しかない、ということになる。
 バス路線は、市境=旧国境の周辺では国道16号線を辿っている。横浜市側=武蔵国側を見ると、"八34"系統や"追1 / 追5"系統の端点である内川橋は国道16号線上で、市境から横浜市側へ2つ目の停留所である。金沢八景駅までの中間地点にあたり、京急ファインテックによる整備工場が併設された操車場となっている。車庫や営業所ではないものの、運行拠点になっており、実質的に追浜駅以南の系統が、折り返し場所確保のために市境=旧国境を越えているわけである。なお、系統記号が"八34"となっていることから判るように、この系統は元々は金沢八景駅からの路線であったものが、道路事情により打ち切られたとも推測されるが、詳細は次節以降で説明する。金沢区から更に北の磯子駅発着となる"4"系統は、概ね国道16号線を辿るが、金沢八景駅の先から金沢文庫駅近くまでは国道16号線の旧道を走る。
 横須賀市側=相模国側は、2つ目の停留所が追浜駅前。"4"系統はここから東へ延びる市道の夏島貝塚通りへ入って追浜車庫を目指す。内川橋始発・終着の他の系統は国道16号線を南進する。"追1 / 追5"系統は更に2つ先の停留所である追浜一丁目を過ぎた先で左折、すぐに急な登り坂の右180度カーブにて国道16号線と京浜急行本線をオーバークロスし、湘南鷹取の住宅街へと向かう。なお、湘南鷹取は地名・住所表示は全て漢字だが、バス停名は「湘南たかとり…」と平仮名交じり表記になっている。"八34"系統は更に国道16号線を南進、(新)浦郷隧道を抜けて船越・田浦方面へ向かう。JRの田浦・横須賀駅を越え、京急横須賀中央駅を越えた先にある安浦二丁目周辺の折り返しのためのループに至るまで、ほぼ国道16号線を辿っている。

横須賀街道天神尾根切り通しを通る主要バス路線群。
"追1"と"追5"系統の運行経路は複雑なので、本文を参照下さい。

バス路線の歴史

 磯子駅と追浜を結ぶ"4"系統は、系統番号に漢字の頭文字がついていないことから判る通り、2007年3月までは横浜市交通局との共同運行であった。ルーツをたどると、"八34"系統も元々は同一路線であったことが判ったので、合わせて説明する。
 路線の始祖は、第二次世界大戦前の横須賀自動車の時代にまで遡る。詳細は未調査だが、同社の路線網の北端は杉田に至り、南端は浦賀を越えて鴨井・久里浜・三崎に達していた。
 戦中に休止された後、戦後の1946(S21)年5月に、当時の東京急行電鉄によって杉田―船越(現代の京急田浦駅付近)間のバス路線が再開。1948(昭和23)年6月に京浜急行電鉄が東京急行電鉄から再独立してこの界隈のバス路線を引き継いだ段階で、路線は横浜市内=旧武蔵国内となる横浜駅―六浦間と、市境=旧国境を越える杉田―横須賀駅間となっていた。その直後、路線南端が堀内まで延長される。1949(昭和24)年2月に横浜駅―六浦の路線にて横浜市交通局との相互乗り入れを開始、横浜市バスとしての系統番号が与えられて"4"系統となる。1950(昭和25)年に路線を統合した結果、横浜駅―磯子―杉田―金沢文庫―金沢八景―追浜―横須賀―堀内という長大路線になる。ただし、横浜市交通局の乗り入れ区間は追浜までであったようである。また、堀内には駅から少し離れた国道16号線上に営業所があり運行拠点となっていた。
 流石に当時の道路事情でも運行区間が長すぎたせいか、1966(昭和41)年に横浜駅―追浜日産自動車間と、金沢文庫駅―堀内間に系統分割される。前者は、更に1971(昭和46)年に横浜駅―杉田平和町間と磯子駅―追浜日産自動車間に分割された。磯子―追浜間の系統が"4"系統の番号を引き継ぎ現在に至る。ちなみに横浜―杉田間は "110"系統となり、2006(平成18)年に横浜市交通局が撤退するも、京急バス単独の運行路線として現存する。
 余談であるが、横浜市交通局は、神奈川県の他のバス会社が東京都のルールに準じて系統記号の頭文字に漢字をつけるようになって以降も、数字だけの系統記号を貫いている。このため、かつて横浜市交通局と相互乗り入れや共同運行を行っていた路線は、横浜市交通局が撤退後も系統記号を改めず、そのまま数字だけとなっている路線が多い。
 一方、金沢文庫駅―堀内間の系統は、1970(昭和45)年に路線北端が金沢八景駅までに短縮された後、1978(昭和53)年に内川橋発着便が設定される。1983(昭和58)年に金沢区総合庁舎前まで北端が延伸されるが、1999(平成11)年に内川橋以北が廃止され、現在の形となる。系統記号の頭文字「八」は金沢八景駅を示すので、同駅発着だった頃に系統記号が与えられたと推定される。一方、路線南端は1989(平成元)年に短縮され、横須賀市街地南部の米ヶ浜終着/成徳寺坂下始発の変則折り返し系統となる。この時に、堀内営業所から追浜営業所に移管されている。2000(平成12)年に折り返しの部分を安浦二丁目経由のループ状に改訂して現在に至る。

戦後における横須賀街道を走る路線バス系統の変遷。

 安浦二丁目以南、堀内方面に向かう路線は、横須賀駅発着にて別個に存在していた路線がベースとなって、現代でも多数運転されている。詳細は省略するが、現在の主力系統の行先は、"須22"系統防衛大学校/"須24"系統観音崎となっており、両系統合わせて毎時5本以上が運転される。これらを含む横須賀地区の路線は、長らく京浜急行バス(のグループ各社を含む)堀内営業所が担当していた。同所が2022(令和4)年3月に閉鎖されたため、現在では久里浜営業所の担当となっている。閉鎖前は横須賀駅―堀内間の"須27"系統も多数運転されていたようであり、しいて言うならば、この系統が  "八 34"系統が1989(平成1)年に路線短縮された際の後継に相当するとみることもできるが、実態は"須22"系統や"須24"系統の車両交換や乗務員交代のための出入庫便だったようである。

 "追1 / 追5"系統はこれらの路線と比べると遥かに後発で、1978(昭和53)年に湘南鷹取地区の開発に伴って開設された。担当は京急バス追浜営業所である。開設された段階では、現在まで残っている単純に湘南鷹取地区の中をループする"追1"系統と、ループから外れて湘南たかとり一丁目の間を往復する"追2"系統が設定されていた。2015(平成27)年に湘南たかとり一丁目を往復した後に湘南鷹取地区の中をループする"追5"系統が開設される。"追2"系統は需要も少なかったためか、"追5"系統と入れ替わるような形で2021(令和3)年7月に廃止され、現在に至る。

浦賀道・横須賀街道の歴史

 江戸時代の中期である1720年、江戸湾に出入りする船舶の監視や監督を行っていた下田奉行が、伊豆国南端の下田から相模国浦賀に移され、名前も浦賀奉行に改められた。これに伴って、東海道の脇往還として浦賀に至る浦賀道の整備が行われた。メインルートは古代=奈良時代以前の東海道のルートで、戸塚宿から鎌倉を経由して横須賀・浦賀に至るルートであった。別名を鎌倉道という。併せて、古くからの金沢道を整備・延長する形で、保土ヶ谷宿から分岐して金沢・六浦を経由するルートも整備されている。後者が本稿で取り上げている道になる。六浦は、鎌倉時代、鎌倉の外港として栄えていた。ただし、武蔵相模国境こそ切り通して越えたものの、追浜以南は三浦半島の丘陵が海に迫った険しい地形となっているため、数カ所にて峠越えとなり、一部内陸側に大きく迂回するルートとなっていた。このため、江戸から横須賀・浦賀へ向かうには、船による海路も一般的であった。
 明治期になり横須賀に海軍鎮守府が置かれると、金沢・六浦経由の浦賀道は、横須賀鎮守府に至る区間が仮定県道を経て1887(明治20)年に國道45號線に指定される(いわゆる明治国道)。横須賀街道の名称はこの頃につけられたものと思われる。1919(大正8)年に旧道路法が制定されると國道31號線になり(いわゆる大正国道)、1922(大正11)年~1929(昭和3)にかけて相模国内=現代の横須賀市内にて峠越えとなっていた箇所や内陸への迂回していた区間に合計7本のトンネルが掘られて、本格的に自動車の通行を可能とした。各トンネルは往復2車線で開通しているが、首都と軍港を結ぶ主要ルートとされたため、1942(昭和17)年~1944(昭和19)年にかけて、往復4車線とするために並行して各々二本目のトンネルが掘られている。これらのトンネルの供用開始は一部が戦後となったものの、1952(昭和27)年の新道路法制定に伴い国道16号線となり、現在に至る。
 上述した通り、本稿で取り上げた武蔵・相模国境となる区間は、江戸時代の浦賀道の時代から、この切り通しを通っていた。1930(昭和5)年に当時の湘南電気鉄道が開通した際や、国道自体の拡幅・往復4車線化に伴って切り通しの幅は拡げられているものの、江戸時代(以前?)から国境に設置されていた傍示堂石塔群が残されている。この石塔群は、元々は現在京急本線の線路が敷かれている側にあったとのことだが、国道の東側にまとめて移転されている。石塔群とは言うものの、大きさはいわゆる普通のお地蔵様サイズである。

国道16号線脇にある、傍示堂石塔群。
六地蔵(数は多いが)や庚申塔、馬頭観音などが祭られている。

 また、切り通しから相模国側に少し進んだ場所にある雷神社は、江戸時代の少し前の1581年から現在の場所に所在している。それ以前は追浜の駅からほど近い築島(現代の追浜三丁目。当時は離れ小島だったらしい)にあり、創建は平安時代の931年と言われる。

国道16号線越しに見る、雷神社の鳥居。
雷神社本堂へはここをくぐって天神尾根に向けて階段を登る。
雷神社本堂。現在の本堂は1960(昭和35)年建立。

 浦賀道の武蔵相模国境は、江戸時代当時から難所であると言われていたが、国境以南の随所に見られた峠越えと比べれば、非常に緩やかである。例えば、横須賀市内の十三峠には、1/2勾配=2m水平に進むと1m登る急坂が存在し、荷車の通過でさえも困難であったとされる。この坂道は階段となっているが、現存している。これと比べれば、若干改良はされているとは思われるが、江戸時代当時の線形を大雑把に辿っているものの自動車が容易に越えて行く天神尾根の切り通しは、非常に緩やかであるといえる。
 ただし、この切り通しがいつ開かれたのかについては、現時点では調査未了である。

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