私が寿司を描くようになった理由 その2.5

前回は寿司嫌いまで書いたと思うが、今回はなぜ私が絵を描くようになったか、を書こうと思う。

私が絵を描き始めたのは気がついた頃だと思う。幼稚園の小さい組だった頃、私はお人形遊びに興じる女の子とも、外を駆け回る男の子とも混じれない、はぐれものであった。

孤独といえばかっこうがいいが、ただの『人形と女子は怖いし、外は嫌い』なただの子供だった。
先生は何とか女の子達の中に連れて行くが、いつの間にか私は大きな白い紙にバカでかい迷路を書いていた。
そしてそれを同じような男の子のお友達に解いてもらっていた。(彼とは長じてからも仲が良かったが、特別なにもないので特筆しないでおく)

何とかそんな幼稚園も卒園し、小学校に上がった私は兄貴の漫画に夢中になる。
母は忙しく、親父はそんなものは読むのはやめろ、という人で読めても小学〜生とかの漫画だった。
あの頃の漫画はかなり緩く、今プリキュアなどの女の子アニメがあるけれど、そんなヒロイン的な存在もなかった。

つまらないのである。ゲームもない、漫画もない、どうしろというのだ。

そんな中、兄貴の持っていた『ドラゴンボール』や『おはよー!Kジロー』、『アップルシード』に夢中になるのは早くない。
そんな私が初めてすごいアニメだと感じたのが、『機動警察パトレイバー 劇場版II』だった。
その時の技術であんな素晴らしいものが作れるのか、とただただ驚愕した。

これではいかん、と思ったらしい母が初めて買ってくれた漫画が『美少女戦士セーラームーン』である。
第一にしたのが、ばらしてトレーシングペーパー (様々な文房具親父が持っていたのだ)で写しては楽しんでいた。
慣れてきたら白い紙に描く。

そんな毎日が続いた。

小学高学年になると、勉強が億劫になる。
「将来なりたいものはなに?」なんて進路相談の手前みたいな事もした。
単純な私は『勉強したくないし、絵を描きたいな〜』と考えていたが、世の中そんなに甘くない。絵を描いて生きていけるのはほんの一握りなんだから!などと母にはよく言われていた。

そんなある日、母が買ってくれたのが『子供用漫画家育成キット(ミサンガメーカー付き)』だった。
これは楽しかった。インクや付けペン、原稿用紙やスクリーントーン(今はほとんどデジタルだろうが、この頃はバリバリアナログだった)。特に付けペンはたくさん描いた、それこそペン先が開き切ってももったいなくて捨てる事が出来なかったくらいだ。

しかし飽きやすの好きやす、いつしか私の興味はミサンガメーカーに移行してしまった。
楽しかったなあミサンガ作り。

その間も描いていたが、高校に行くまで特に特筆すべき事柄がないので省く。
あえて言うならば、やや度の過ぎたオタクになってしまったくらいだ

さて高校はどこに行こう、そうなった時に絵を教えてもらえる学校がいい。そうなった。
そんな時、母が都立工芸高校はどうだろう、と言ったのだ。「グラフィックアーツ科」というのがあって、そこでは絵も教えてくれるという。

一二もなく頼んだ。都立なので、親父が公務員だった我が家は安く済んだ。これは母も喜んだ。

「グラフィックアーツ科」はかなり競争率が高かったらしいが、すんなり割り込めた私は喜んだ。
教わるもの教わるもの全てが初めてで、部屋中にあるパソコン、見た事もないものや知らないことばかりで、楽しく過ごした。そしてある日気づく。
『あれ、絵の事何も教わってないや』

私は昼間働き、夜に勉強をするという夜学コースだったのだが、勉強の時間は四時間しかない。
大抵は二時間、又は四時間の授業で潰れてしまう。
一応美術部には入るが、顧問が来ない(他所の部も請け負っているため、そちらにかかり切りになるのだ)。
ほぼほったらかしである。とりあえず彫刻像はあるし、画材は自由にくれるし、何とか描いているが、そこはそれ、夜である。

夜は楽しい。
なぜか楽しいのだ。
いつしか私は時をかける少女になり、毎日母に叱られる日々が続いた。

その頃、友人と同人誌を何冊か発行した。ありがたいことに、売り切れてくれて胸を撫で下ろしたものだ。
オタク街道はまっしぐらだった。

そんな中我が家もインターネットの世界に入る。私は初めて買ったパソコンにて、HTMLで作ったテキストや絵をインターネットをにあげていた。
しかし時間がなかなかとれない。少しずつお友達ができても、あまり連絡が取れずにいた日々だった。

そんな私も卒業を迎えた。
その前に卒業制作を描け、そう教官が言うのだ。
(水張りくらいしか教えてないのに!)
そう思ってもとにかく描いた。水道橋は画材店に近いため、アクリルの道具は色々買えた。他の画材も買い漁った。
そして卒業制作提出最終日、インフルエンザを姉貴からもらった私は深夜までかけて、描き切ったのだ。
(あの頃のBGMはあ〜やだったが、今聴くとあの苦しかった思い出が蘇るので聴きたくはない…うっ、頭が)

さて、専門学校か大学となった私だが、残念ながら我が家には大学に行けるほどの金はなかった。
元々貧乏なのもあるが、姉貴が私立に行き、大学へ行ったからだ。
そもそも大学なんて面倒くさそうでいやだった。
消去法で専門学校に決まった。
しかし、すぐに行くのをやめてしまう。夜型がいつまでも直らないのだ。

まあ家に居ても絵は描けるし、漫画小説は兄貴が買うし、姉貴もたまになら小説費は出してくれる。バイトもしていたし、自由だったから夜も出ていた。金はあるし画材も買える、ネットもできる!

しかしこの頃はアナログで描くことは少なく、ほぼデジタルであった。
そしてガチ気味なファッションオタクだった私は細く、長身な男性に惹かれてしまう。

これが厄介だった。
何しろ描く絵描く絵全て細長くなるのだ。
一度定着するとなかなか直らないのだ。逆にそれでもいいや、と開き直り気味な私に神の掲示が下る。

この紙の束を捨てろ!底抜けたらどうする!

とにかく捨てた。漫画も本も描きためた紙もありとあらゆるものを捨てまくった。
母は言い過ぎた、悪かった、とおろおろして姉に止めるよう言ってくれ、と言っていたが、とにかく捨てた。

そして私の部屋がとうとう空になってきた頃、やっと私も落ち着いた。
そう、キレたのである。

捨て終わってから、何ヶ月かは描かなかったが意地みたいなものだった。
盲腸で入院した時も欠かさず描いていたものがなくなった私は虚しくなった。

今まで人を描いても全く上手くならず、逆に下手になっていた私は、『ひょっとして私は人間が下手なのか?』そう考えた。

そんな時、画材店にて半額になっていたWinsor & Newtonの固形絵具セットと、画用紙に描くことを考えた。
ならば好きなものを描けばいい!

私の好きなもの、人以外で好きなもの…
思いついたのが食べ物だったのである。

この頃の塗りはお世辞にもうまいと言えなかった。そもそも塗り方なんて教わらなかったし、学校の教材はアクリルガッシュだった。
私は水彩絵の具をアクリルのようにベタっとした質感で塗ってしまっていた。

それから数年して、何とか水彩絵の具というものを知り、描くことをこなし、Twitterにてアップする事でお友達も増えたし、反響が大きくなった。

合間合間で全く描けなかった時や、母が入院した時、そんな時は描けなかったが、やっと今絵を描くことが出来ている。

私にとって絵を描くことは、趣味だが、それでお金をいただけたり、褒めていただけたり、それで全く知らない方ともお友達になれたり、本当にありがたい趣味である。
今では無くてはならない、息をする理由のようなものだ。

起きていの一番に何を考えるか、(それは私は、今日の寿司の日はどうやって描こうかな。)である。

そんな毎日を送らせてもらっている。これからもそうであるとありがたいし、辞めたくないし、きっと辞められない、そんなものだろう。

長々とありがとうございました。

よろしければ。