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「君が君で君だ」ねじれた片思いに身を捧げた男3人の青春

映画「君が君で君だ」に出会うまで

この映画のDVDを手に取ったきっかけは、数年前にクリープハイプの音楽を聴くようになって、彼らのミュージックビデオをいくつか撮影した松居大悟監督の存在を知ったことだった。映像作家かと思ったら「ゴジゲン」という劇団を主宰しており、舞台、映画、ミュージックビデオ、テレビドラマなど様々なものを手掛けていることが分かってきた。作っているものを見ても、ミュージックビデオなのか短編映画なのか分からない作品があったり、映画のようにロケ地で撮影されているのに出ている役者は2週間の物語を74分ノーカットで演じていて「映画? 演劇?」という気持ちにさせられるものなど、実にボーダレス。

いくつか見た作品で印象的だったのは、躍動感のあるカメラワーク、キャスト一人一人が発するエネルギーや佇まいを大切にする演出、そして挟み込まれる絶妙な音楽だ。また、好きなバンドへの熱すぎる思い以外に目立ったところのない九州の女子高生や、初舞台がスポンサーの事情で突然中止になって戸惑う役者の卵などを主役に据える脚本には、スポットライトの当たらない場所で生きている日陰者たちへの愛を感じた。

そして今回、ノーチェックだった松居作品「君が君で君だ」を観てみた。
予告編では、同じ女を好きになった3人の男が、女が自分のタイプの人として挙げた尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬に扮し、共同生活を営みながら女を「見守る」という不穏なあらすじが紹介されていた。一方、出演者は、池松壮亮、大倉孝二、向井理、満島真之介、YOUなど、案外豪華(特にクズ男にも陰キャにも熱血漢にもなれてしまう池松壮亮と、大河ドラマ・新選組で処刑される日の男を見事に演じきった大倉孝二には、個人的にかなり実力を感じている)。これは……せっかく黒毛和牛のステーキ肉が手に入ったのに、切り刻んでチャーハンの具にするみたいなことでは……⁉

あらすじ(ネタバレ少なめになるよう頑張ります)

大学生と思しき男子が2人(池松壮亮と満島真之介)、カラフルな照明がちらつくカラオケで熱唱している。一方はかなり酔っているようで、自暴自棄にすら見える。バイトの女の子(キム・コッピ)がドリンクを運んできて、韓国語訛りの日本語で喋りながらグラスを下げてゆく。
店を出て、夜の街を歩く2人。一方が酔いに任せて若い男女数人のグループに絡んだことから喧嘩が始まり、2人は男たちにボコボコにされる。しかし、そこにカラオケバイトを終えた例の女の子が登場し、とっさに脇にあった空き瓶を叩き割って、怒鳴りながら男たちに突きつける。「この女やべえ!」と逃げてゆく男たちを尻目に、女の子は道端で倒れている2人の無様な状況を見て無邪気に笑い、2人の顔から流れた血を白いハンカチで優しく拭く。「さっき、歌ってたの……何ていう歌?」「僕が僕であるために……尾崎豊の」「僕ガ、僕デ、アル、タメニ」。短いやり取りの後、女の子はハンカチだけ残して去ってゆく。助けてくれた彼女の背中を目で追う男2人の顔は恍惚としていた。

ここで、話は唐突に10年後へと飛ぶ。段ボールで窓が塞がれた狭苦しいアパートで、白いTシャツにデニム姿の若い男(池松壮亮)と、着古した黒い紋付袴をまとった中年男(大倉孝二)が、段ボールの隙間から外を覗いている。何かを見つけたらしく、色めき立つ2人。
「姫、帰宅しました!」「○時○分○秒!」窓際に置かれた謎の装置のスイッチが押されると、スピーカー部分から韓国語訛りの「タタイマー」という可愛い声が響く。小声で「おかえりなさーい」と返す男2人。やり取り自体の微笑ましさと、2人が行っている「盗聴」という行為の気色悪さが同居するシチュエーションは、見る者の胸をざわつかせる。
そこに、派手な服を着た金髪の男(満島真之介)が、ゴミ袋とゴミばさみを手に「帰国しました!」と元気よく入ってくる。出迎える二人に、ゴミ袋の中身を1つずつ取り出して見せる金髪男。姫が昼に食べたネギトロ巻きのパックや使用済みのコットンなどが披露され、歓声が上がる。数枚の盗撮写真は、既に盗撮写真が何百枚も貼られた壁面に、新たなコレクションとして追加される。10年前は黒髪の留学生だった彼女は、今では髪を金に近い茶色に染め、愛する男を養うため風俗店で働いているのだった。
不意に、装置から「イタタキマース」という声が漏れてきた。男たちは急いでカップ麺にお湯を注ぎ、彼女が麺をすする音を聞きながら、同時に麺を掻き込む。「あ、あちぃ、うめぇ!」……一つのカップ麺を分け合って食べる男たちの表情は輝き、秘密基地で遊ぶ少年たちのように強い絆で結ばれているのが見て取れる。同じ女を愛しているなら、恋敵になるのが筋なのに。

しかし、そんな平和(?)を打ち破るように、スピーカーから怒鳴り声が聞こえてくる。姫と一緒に暮らしているヒモ(高杉真宙)のもとに、ヤクザが借金の取り立てに来たのだ。姫を守りたいという思いが高じてしまった中年男は、空になったカップ麺の容器を彼女のベランダ目がけて投げつけ、運悪くベランダにいたヤクザに命中させてしまう。
部屋に怒鳴り込んできたチンピラ(向井理!)とボス(YOU!)に、ただただ「ごめんなさい」「ごめんなさい」とひれ伏す3人。「名前は?」「尾崎豊です」「坂本竜馬です」「ブラッド・ピットです」――本名を訊いても頑として答えない3人に、チンピラもボスも呆れ果てる。奥の部屋にびっしり貼られた姫の写真を見つけたチンピラは、「うわ、こいつら集団ストーカーですよ!」と叫ぶ。
「ストーカー、ではない」。ぼそっと反論する、自称尾崎豊。
「兵士です。僕たちは、姫を守っている、兵士なんです」。

映画が進むにつれて、3人が狂った共同生活を始めることになったいきさつが、徐々に明らかになる。ブラッド・ピットになる前の男が、ハンカチを返すタイミングを考えながら姫の後をふらふら歩くうちに彼女の家を知ってしまい、そこが向かいのボロアパートの空き部屋から丸見えだと気付いてしまったこと。尾崎豊になる前の男がバイトをしていたレコードショップで、友達に好きな男性のタイプを訊かれた姫が「歌声は尾崎豊、顔はブラッド・ピット、中身は坂本龍馬」と答えたこと。坂本龍馬になる前の男が実は姫の元彼で、「重い」という理由で振られたこと。姫には日本語の先生になるという夢があったが、それを一番望んでいた親日家のお母さんが、留学中に急死してしまったこと……。

若いストーカーとその親友、そして姫に振られた後に仲間に加わった中年男は、最愛の母を失って悲しみに暮れる彼女を、遠くから成す術もなく見つめていた。自分たちにできることはないのか……。突然、一人が海に向かって駆け出し、宣言する。
「俺、尾崎豊になる」!
あまりにも脈絡のない謎展開だが、何と男2人も後に続く。「じゃあ、俺はブラッド・ピット」「私は、坂本龍馬」!!
「日本を、洗濯いたし申し候」「そうだ、3人で、国を創ろう! 彼女を守るための国を!」
突っ込む者が誰もいない空間で、3人の10年に及ぶ狂った日常が始まった。リーダー格となった自称尾崎豊は、「決して姫の人生に干渉せず、姫の全てを受け入れ、姫の身に起こるどんなことからも目を逸らさず見守り続ける」という鉄の掟を定める。彼の統制は、気持ちが暴走しやすい自称坂本龍馬が掟を破りそうになった時のために、部屋に鎖の付いた首輪を設置するほどに厳しいものだった。

しかし、その「国」にヤクザがやってきたことで、3人の日常が少しずつ崩れてゆく。名前や自分らしさを捨てて好きな女の好きな男になりきるという3人の生き方が理解できないチンピラは、親やこれまで自分を愛してくれた人の気持ちはどうなるんだと説教を始める。一方、ボスは、3人の姫への一途な思いに「アンタ、こんなに愛されたことある……?」と感動しながらも、率直な見解を突きつける。「これ犯罪だよ?」「アンタたちが守ってるのは、姫じゃなくて、その生活でしょ」。3人は、姫のことしか考えない熱に浮かされたような日々を、客観視せざるを得なくなる。
さらにボスが、3人に対して借金を肩代わりするよう持ち掛けたことで、交渉のために部屋にやってきたヒモにも3人の行動がバレることに。そしてヒモを探しに来た姫も、ついに部屋に足を踏み入れる。風俗店での盗撮写真を目の当たりにした姫は、「こんな私撮らないでよ」と泣き叫びながら写真を壁から剥がし、床に投げ捨てる。

自分たちがやってきた「姫を見守る」行為は、本当に姫のためになっていたのか?
3人の掲げた理想は揺らぎ始め、共同生活は終わりへと向かってゆくのだった……。

圧倒的なしょうもなさ、後ろめたさとセットの笑い

愛した女の好きなタイプの男に10年間なりきり、決して彼女の人生に干渉せず、彼女のプライバシーを覗き続ける3人の男たち。元々は演劇の脚本だったものが映画化されたという事情はあるにせよ、常軌を逸した話である。
スチール写真を見れば分かるように、主人公の3人は、それぞれが担当する人物に全く似ていない。尾崎豊ならまだしも、日本人がブラピになりきるなんてどう考えても無理があるし、龍馬になりきりたいならチンピラに凄まれたくらいで「ごめんなさい」とか言うべきではない(そんなんじゃ日本を洗濯できないぞ、オッサン……)。
あと、チンピラ役に関しては、「向井理の無駄遣い」という点において衝撃的だ。モデル体型のスマートイケメンに柄シャツを着せ、眉毛を剃らせ、暴力を振るわせるなど、もはや罰ゲームの域……まあ本人にとっては演技の幅が広がったのかもしれないけど。

深刻なシーンなのにおかしな方向に脱線してゆく会話、ヒマワリ畑で安っぽい兵士のコスプレをした自称尾崎豊がドレス姿の姫と謎のダンスをする妄想シーン、姫の部屋から聞こえてくるヒモとのやり取りが肉体的な絡みに発展しそうになると3人が憑かれたように踊り出す……などのしょうもない演出が多々あり、恋愛映画というよりは、ややブラックでクセの強いコメディーと説明した方が、雰囲気は伝わりやすい気がする。
あちこちに仕掛けられたおかしなポイントに笑っているうちに、愛と狂気、純情と狂信、正常と異常の境界がどろどろ溶けてゆくのを感じる。状況が状況だけに、笑いと同時に「いや、これ笑っちゃいけないのかもしれないけど……」みたいな後ろめたさがセットで来るのだ。でも、深刻さとおかしさが同居するこの感じこそ人生、という気もする。一癖ある笑いを求めている人には是非観てほしい。

自称尾崎豊の愛とプライド

ただ、この映画のストーリ―そのものを考えてみると、単なるコメディーとして片付けられない部分もあるように思う。
この部屋の住人、特にまとめ役である自称尾崎豊の行動を冷静に見つめると、これに近いことをしている人は案外多いのではないか、という気持ちにさせられる。いや、もしかしたら私自身も、こんなことをしてきたのかもしれない。

自称尾崎豊は「自分たちは姫を守っている兵士」「自分たちの使命は姫の人生に干渉せず、あらゆる行動を肯定し、受け入れ、見守ること」という物語を作り、その物語の住人として生きることを選ぶ。それは一見、愛ゆえの自己犠牲のようだし、本人もそのつもりでいる。しかし私は、この物語が生まれた背景にあるのは、彼の中にある姫への愛以上に、傷つきたくないという臆病さに思えてならない。

自称尾崎の中には当然、姫と交際したい気持ちがあるだろう。しかし彼女に「僕と交際してください」と言うなら、振られるリスクを負わなければならない。
そして、彼女にOKを貰えて交際が始まったとしても、今度は相手を幸せにする難しさに直面することになる。自分よりルックスが整った男、コミュ力が高い男、金や立派な肩書きを持っている男なんていくらでもいるという現実を前に、自分が持っているものの少なさを思い知らされて傷つくこともあるだろう。それ以外にも、価値観の違いに直面して苦しんだり、気持ちの行き違いに心を痛めたり、思いを上手く伝えられず相手を傷つけたりと、心が折れるリスクは無限にある。
今まで他人だった誰かの人生に恋人として参加し、その人と本気で向き合うのは、決して楽しいことばかりではない。たとえ相手を深く知る喜びや、衝突を乗り越えたことで築かれる信頼関係がかけがえのないものだったとしても、そこに至るまでの苦しさに耐えられない人間だって確実に存在する。

自称尾崎豊は、自分を助けてくれた女の子の人生に彼氏として参加することを、最初から諦めた。もちろん、同じ女を好きになってしまった友人2人への遠慮もあっただろうが、それ以上に、彼女と深く関わる中で自分の不甲斐なさが暴かれてゆくことを恐れたのではないかと思う。
「自分は尾崎豊」という物語の主人公になってしまえば、ちっぽけな本名の自分を引き受けなくて済む。彼があの部屋で守っていたのは、姫ではなくて、自分のプライドだったのではないだろうか。

ちっぽけな自分に向き合いたくなくて、別の存在になりきる。これは案外、ありふれた話のような気がする。本当は地方在住のしがないOLなのにSNSでは「港区女子」を名乗って高い服や料理の写真をアップする人とか、組織や宗教なんかの大きなものに所属することで「自分は他の奴らとは違う」と思おうとする人とか、自分は能力者だと信じて力を覚醒させる謎のトレーニングを始める中二病の子とか、多分みんなそうだ。
ただ、傍から見れば滑稽な行動に走る彼らにも、もしかしたらそうせざるを得ない事情があるのかもしれない。ありのままの自分を直視したら自己嫌悪に潰されることが分かっているから、自分が傷つくことのない物語を作って何とか凌いでいるような。その感じは何となく身に覚えがある。10代の自分を振り返ってみると、そんなところもあった気がしてくる。

自称尾崎豊と松居大悟監督はどこへ向かうのか

自分が自分であることを引き受けず、自分で作った物語の住人に徹する男たちの生き方を、真似したいとは全く思わない。しかし「自分は尾崎豊/ブラッド・ピット/坂本龍馬」という物語の馬鹿馬鹿しさや、姫の挙動に一喜一憂する3人の滑稽な動きを見ていると、情が移ってくるというか、彼らがどこか憎めない存在に思えてくる。人間の弱さや格好悪さに対する松居監督の優しい眼差しが、彼らを愛すべきクズに見せているのだろう。ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」に、「聖者になんてなれないよ だけど生きてる方がいい」という歌詞があったのを、何となく思い出す。
(それにしても、自分から逃げている3人に「僕が僕であるために」を歌わせるのは皮肉ですよね。。。)

しかし、映画の最後に、自称尾崎豊の心に生じた変化を象徴するようなシーンがある(詳細は伏せますが)。物語に逃げずに、本名の自分として姫に向き合えばよかった、という彼の気持ちが漂ってくるような。松居監督は、姫にも自分自身にも正面から向き合わなかった自称尾崎豊に一定の同情を示しつつも、全面的に肯定しているわけではないように感じた。

姫と兵士の物語を失った自称尾崎豊は、この先どんな風に生きてゆくのだろう。懲りずに新しい物語を作って、その住人になるのか。それとももう物語は作らず、本名の自分として生きようと腹を括るのか。

そして、松居監督の今後も気になる。愛をテーマにして何か作る場合、引き続き対象に向き合えずに逃げる人々を、皮肉と優しさを込めて描くのだろうか。それとも、人間と人間が正面からぶつかり合い、お互い傷ついたり傷つけたりした先に何かを見つけるような脚本を書いたりするのだろうか。もしくは、こちらの想像を超えた愛の極北を見せつけるのか。

愛というテーマに対する松居監督の一癖あるスタンスが、今後どうなってゆくのか、静かに見守ってゆきたい。もちろん言葉通りの意味で。盗聴も盗撮もストーキングもしないですよ!

余談

現在、自分の中でかなり重大なイベントを控えており、割と精神がしんどい。自分が3年以上かけてやってきたことに対して審判が下る、恐ろしいイベント。何も考えずに笑いたくて「君が君で君だ」のDVDを借りてきたのが先週の話。
自称坂本龍馬(大倉孝二)が病院のベッドから落ちるところと、その後の(ナース)「体調はいかがですか?」(龍馬)「少し、切ないです」のやり取りで一番笑った。あれを思い出して何とか乗り切る所存。なんか、ありがとうございました。

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